アメリカ軍は、朝鮮半島の北東端で中国国境付近の人工湖である長津湖(Battle of Chosin Reservoir)で、1950年11月27日に初めて中国人民志願軍と衝突した。突然の奇襲を受けたハガルリ基地を全面撤退しながら体制を立て直した。朝鮮戦争の線局が不利となり、アメリカ軍司令部は、コドリ基地を経てフンナム港から38度線以南への全面撤退が決定した。アメリカ軍は、この時点で約7,000名以上の損害を出した。氷点下の気温、雪に覆われた山々、凍った道路、風にさらされた断崖が、あらゆる戦闘に襲った。
12月3日からアメリカ軍は、ハガルリ基地からコドリ基地に向けて撤退した。約80Kmの間は とても撤退路が狭小であり、北朝鮮軍と中国人民志願軍には絶好の待ち伏せ地点となるヘルファイヤー峡谷(Hell
Fire
Valley)があった。アメリカ軍は、危険を伴いながら、コドリ基地を目指して退却を始めた。ヘルファイヤー峡谷で、双方は激烈な戦闘となった。撤退路を確保しないと、壊滅する危険も伴った。アメリカ軍が、山岳の北朝鮮軍と中国人民志願軍に下方から這い上がって突撃を敢行した。ヘルファイヤー峡谷には、北朝鮮軍と中国志願軍の膨大な戦死した死体が散乱した。アメリカ軍は撤退しながらも、北朝鮮軍と中国志願軍は山岳地帯からの攻撃を受けた。苦闘してコドリ基地に12月4日に到着した。その後にさらに南方に撤退して、12月11日にフンナム港に到着した。その途上では海からのアメリカ軍の艦砲射撃で、北朝鮮軍と中国志願軍の犠牲者は増大して、中国国境から遠方となり補給が枯渇して、追撃は停止した。アメリカ軍はフンナム港を破壊しながら、輸送船で38度以南に向けて撤退した。
長津湖の戦いで、主にアメリカ軍は約1,029人が戦死して、戦病死は約7,338人、戦傷者は7,338人、行方不明が約4,582人と、犠牲者は約17,843人にも達した。北朝鮮軍と中国軍志願軍は、戦死傷者は約19,202人、戦病死が約28,945人と犠牲者は約48,147人以上にも達した。