3/10/2026

Below: Serbian victims of the reprisals by Austria after the assassination of Franz Ferdinand,

 1914年8月、第一次世界大戦の東部戦線でロシア軍はドイツ領東プロイセンに侵攻した。ロシア軍は、レンネンカンプ将軍率いる第1軍と、サムソノフ将軍率いる第2軍の二方面から攻撃を行い、ドイツ軍を挟撃する計画であった。これに対しドイツ軍第8軍は当初プリットヴィッツ将軍が指揮していたが、後にヒンデンブルクとルーデンドルフが指揮を引き継いだ。

ロシア軍は湿地や湖の多い東プロイセンの地形の中を進軍したが、補給は不十分で、兵士たちは疲労し半ば飢えた状態であった。それでもサムソノフ軍はドイツ軍のフランソワ軍団と激しい戦闘を4日間続けた。しかし8月27日、ドイツ軍のフォン・ベロウ軍団がサムソノフ軍の北側面を攻撃し、さらにマッケンゼン軍団が続いて包囲網を形成した。

自軍が包囲されつつあることに気づいたサムソノフは撤退を決意したが、ドイツ軍は強く追撃した。特に攻撃的な指揮官フランソワは前進を続け、8月30日、ロシア軍の二個軍団を行軍中に奇襲した。その結果、約6万人の兵士が捕虜となり、最終的には捕虜の総数はほぼ10万人に達した。大敗北に絶望したサムソノフ将軍は戦場で自殺した。

一方、レンネンカンプ率いる第1軍はタンネンベルクの危機でサムソノフ軍を十分支援できなかった。孤立したレンネンカンプはマズーリ湖周辺の防御線に部隊を配置し、ドイツ軍の反攻に備えた。ドイツ第8軍は1か月にわたる戦闘の疲労から攻撃の進みが遅れ、ロシア軍は右側面の包囲を防ぎながら戦った。最終的にロシア軍はニーメン川方面へ撤退したが、秩序ある退却で完全な壊滅は避けた。

その後のマズーリ湖の戦いはドイツ軍の勝利となり、東プロイセンからロシア軍をほぼ排除する結果となった。タンネンベルクほど劇的ではなかったが、この勝利によって東プロイセンは解放され、兵力では劣るドイツ軍が東部戦線で主導権を握ることとなった。また、この勝利によりヒンデンブルクは国民的英雄として称賛される存在となった。

一方ロシアにとっては大惨事であり、第2軍は事実上壊滅し、指揮官も戦死した。タンネンベルクの敗北はロシア軍に深刻な影響を与えた。





3/09/2026

According to the ministry's statement, Israeli forces entered the cemetery at dawn on Thursday, demolished graves with bulldozers, exhumed bodies, and removed the remains of martyrs and ordinary deceased individuals.

 2025年7月、パレスチナ自治区ガザの宗教施設や墓地を管理するGaza Endowments Ministryは、イスラエル軍が南部の都市Khan Younisで墓地を掘り返し、遺体を持ち去ったとして強く非難した。

同省の声明によれば、イスラエル軍は木曜日の夜明けに墓地へ侵入し、ブルドーザーで墓を破壊して遺体を掘り起こし、殉教者や一般の死者の遺体を持ち去ったという。声明は、この行為を「恐ろしい犯罪」であり、「宗教的・人道的価値や規範を露骨に踏みにじるものだ」と批判した。さらに、こうした行為は人間としての最低限の倫理や国際的価値を超えるものであり、「死者の尊厳と神聖さを踏みにじる蛮行」であると強く非難した。

また同省は、イスラエル軍がさまざまな「口実」を用いてガザ地区の墓地を組織的に破壊していると主張している。ガザには約60か所の墓地が存在するが、そのうち40か所が意図的に破壊されたとしている。

この事件は、2023年10月以降続くガザでの戦闘の中で報告された出来事の一つである。イスラエル軍による攻撃により、これまでに約5万7800人のパレスチナ人が死亡したとされ、その多くは女性や子どもだと報告されている。継続的な空爆と軍事行動によりガザ地区の都市やインフラは深刻な被害を受け、住民の生活環境は著しく悪化している。食料不足も深刻化しており、一部では飢餓に近い状況が生じていると指摘されている。

こうした状況の中で、墓地の破壊や遺体の扱いをめぐる問題は、戦争における人道的規範や宗教的価値の観点から強い批判を呼んでおり、地域の緊張と国際社会の懸念をさらに高めている。



3/08/2026

This report details the military situation and humanitarian crisis during the initial stages of Russia's 2022 invasion of Ukraine. Sixteen days after the invasion began, Russian forces continue to attack civilian areas in cities across the country while gradually advancing toward the capital, Kyiv.

2022年ロシアのウクライナ侵攻の初期段階における戦況と人道危機を報じている。ロシア軍は侵攻開始から16日後、首都キーウ(キエフ)へ徐々に接近しながら、各地の都市で民間地域への攻撃を続けている。国際社会は「想像を絶する悲劇」が迫っていると警告しており、国際連合などはロシア軍が戦争犯罪を犯している可能性を指摘している。

   特に南部の港湾都市マリウポリではロシア軍による包囲が続き、12日間の攻撃で1500人以上が死亡したと地元当局が発表した。街は水道や暖房が止まり、食料も不足している。極寒の中で市民は脱出を試みているが、多くの人々が取り残されており、国境なき医師団は「数十万人が実質的に包囲されている」と述べている。街路には埋葬されない遺体が残るなど、状況は極めて悲惨である。

    ウクライナの大統領ウォロディミル・ゼレンスキーは、NATOに軍事介入を求めているが、米国大統領ジョー・バイデンは、核保有国ロシアとの直接衝突は「第三次世界大戦」を招くとして軍事介入を拒否した。その代わり米国と欧州連合はロシアへの経済制裁を強化し、通常貿易関係を停止し、ウォッカ・海産物・ダイヤモンドなどロシア産品の輸入禁止や高級品の輸出停止を決定した。

    戦争の影響で避難民は急増し、約250万人が国外へ逃れ、国内でも約200万人が避難生活を余儀なくされている。第二の都市ハルキウや工業都市ドニプロでもミサイル攻撃により住宅や幼稚園などの民間施設が破壊され、子どもを含む多くの市民が被害を受けている。





 

A bag packed with explosives was placed at the scene and may have been detonated remotely. The sudden explosion caused panic among the crowd, leading to widespread chaos as people fled in confusion. The death toll was initially reported as over 100 but was later revised to 84.

2024年1月3日、イラン南東部ケルマンで、革命防衛隊の司令官であったカセム・ソレイマニの命日を追悼する式典の最中に二重爆発が発生し、少なくとも84人が死亡、200人以上が負傷した。ソレイマニは2020年に、イラクのバグダッドでアメリカ軍のドローン攻撃により殺害されており、この日はその4回目の追悼行事で、多くの支持者が墓地周辺に集まっていた。

 爆発はソレイマニの故郷ケルマンのサヘブ・アルザマン・モスク近くの殉教者墓地付近で、約15分の間隔をあけて2回起きた。最初の爆発は墓から約700メートル、2回目は約1キロ離れた場所で発生したとされる。イランの報道によれば、爆弾を詰めたバッグが設置され、遠隔操作で起爆された可能性がある。現場では突然の爆発により群衆がパニックに陥り、逃げ惑う混乱が広がった。死者数は当初100人以上と報じられたが、その後84人に修正された。

 イラン政府はこの事件をテロ攻撃と断定し、最高指導者のアリー・ハメネイは「邪悪で犯罪的な敵」が関与しているとして厳しい報復を誓った。大統領のエブラヒム・ライシも事件を強く非難し、予定していたトルコ訪問を中止したうえで、翌日を国民追悼の日に指定した。イラン側は背後に米国とイスラエルがいると主張した。

 しかしアメリカは関与を明確に否定し、国務省報道官は米国も同盟国イスラエルも関係していないと述べた。イスラエルも公式なコメントは控え、軍報道官は現在はハマスとの戦闘に集中していると説明した。

  事件は、ガザ地区で続くイスラエルとハマスの戦闘や、前日にレバノンでハマス幹部が殺害されたことなど、中東情勢が緊張する中で発生した。事件後、ケルマンでは群衆が再び集まり「イスラエルに死を」「アメリカに死を」と叫びながら抗議した。テヘランでも数千人が集まり追悼集会が開かれた。

  国際社会からも非難が相次ぎ、アントニオ・グテーレス国連事務総長や欧州連合(EU)は強く批判し、EUの外交安全保障上級代表であるホセップ・ボレルはイラン外相に哀悼の意を伝えた。さらにロシアのウラジーミル・プーチン大統領も、平和的に墓地を訪れていた人々を殺害した残虐な行為だとして非難した。ハマスやサウジアラビアなども事件を批判し、多くの国が犠牲者への哀悼とイラン国民への連帯を表明した。





  

3/04/2026

The remains of a U.S. Army officer, who had been killed in action, were transported after being recovered from the rubble of a U.S. Army bachelor officers' quarters in Saigon that had come under attack by Viet Cong forces during the 1968 Tet Offensive.

戦死したアメリカ軍の戦友が、1968年のテト攻勢中に、サイゴンでベトコンの攻撃を受けたアメリカ軍の独身将校宿舎の瓦礫から掘り出されたアメリカ軍将校の遺体が搬送された。

 1968年のベトナム戦争はテト攻勢により決定的な転換点を迎えた。旧正月(テト)の休戦を破って敢行された共産側による一斉攻勢であるテト攻勢は、軍事的な勝敗を超えて、アメリカ国内の世論とアメリカ軍の士気に傷跡を残しました。サイゴンのアメリカ軍独身将校宿舎(BOQ)における被害とアメリカ軍将校の遺体搬送は、戦線が消滅して、安全なはずの後方が地獄に化した混沌を象徴した。

 1968年1月31日未明のテト攻勢の衝撃により、北ベトナム軍(NVA)と南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)は、南ベトナム全土の主要都市や軍事施設を同時多発的に襲撃した。勝利は間近であるアメリカ軍上層部の報告を信じていたアメリカ国民にとって、首都サイゴンの中心部、さらにはアメリカ大使館までもが戦場となった衝撃を与えた。

 特にサイゴン市内に点在していた独身将校宿舎(BOQ: Bachelor Officers Quarters)や軍事宿泊施設は、ベトコンの都市ゲリラにとって絶好の標的となった。前線から離れ、休息や事務作業に従事した兵士たちは、突如として瓦礫の下に閉じ込められ、不意打ちを受けた。サイゴン市内の将校宿舎(BOQ)への攻撃は、多くの場合、爆薬を満載した車両の突撃や、近隣の建物からのロケット砲(B-40)による狙い撃ちされた。宿舎は要塞ではなく、居住施設であった。瓦礫の中から戦友を掘り出すアメリカ軍兵士は、敵への怒り以上に、安全が崩れ去った困惑と、仲間を失った深い喪失感が刻まれた。建物が密集する市街戦のサイゴンでの戦闘は、敵味方が入り乱れる混戦となった。瓦礫から掘り出される遺体は、戦線となった。

 遺体の帰還がメディアを通じてアメリカ米本土の報じられた。アメリカ軍は軍事的にはテト攻勢を撃退し、共産側に甚大な損害を与えた。宿舎の瓦礫から運び出されるアメリカ軍兵士の遺体、見守る戦友たちの映像や写真は、衝撃を与えた。

 失われた戦友は、第二次世界大戦以来の「正義の軍隊」とアメリカ軍の無敵性の喪失を示唆した。1968年のテト攻勢におけるBOQの悲劇は、現代の非対称戦争における「後方支援施設の脆弱性」を先取りした事例でもある。瓦礫の中から搬送される遺体は、兵士一人ひとりの命の喪失と、戦争の残酷な真理を提示した。







  

2/28/2026

In August 1944, immediately after the liberation of Grenoble during World War II, French forces executed young Frenchmen who had collaborated with Nazi Germany.

 第二次世界大戦中のグルノーブル解放直後におけるフランス軍が1944年8月にナチス・ドイツに協力した悲惨なフランス人若者を銃殺した。ナチス占領軍と協力したジョゼフ・ダルナン率いる準軍事組織フランス民兵に所属した若者たちの銃殺の処刑を描写した。グルノーブルでは、数名の若いミリシエンが銃殺刑に処され、その様子は公衆の面前で公開された。

 フランス軍民兵であるミリス・フランセーズは、1943年にヴィシー政権によって設立されたファシスト民兵組織であった。その指導者であるジョゼフ・ダルナンは、第一次世界大戦の勲章受章者でありながら、ナチス・ドイツに対して強硬な協力者となった。ミリス・フランセーズは残虐行為で悪名高く、しばしばフランス人に対するゲシュタポの専門補助部隊として暗躍した。フランス抵抗運動であるマキのメンバーを追い詰めて、ユダヤ人市民を強制移送した。

 アルプスの首都として知られるグルノーブルはレジスタンスの拠点であった。1944年8月に解放された際に、ナチス・ドイツ軍の占領解放の歓喜と協力フランス人への粛清(エピュラシオン)への激しい渇望が入り混じった空気が漂った。究極の裏切り者と見なされたミリス・フランセーズのメンバーが、地元フランス人住民とフランス国内軍(FFI)の主要な処刑の標的となった。

 この時代の最も有名な写真記録の一つには、壁に向かって最期を迎える若者たちの集団が写っており、この光景は協力体制の終焉を視覚的に証言するものとなった。処刑された若年フランス人メンバーは悲劇的な死刑を反映した。多くのミリス・フランセーズらは極めて若年の青年であり、ナチス・ドイツのイデオロギー的洗脳や権力への期待によって勧誘された若者が多かった。多くの者が迅速かつ感情的な軍法会議にかけられた。





2/10/2026

In Chutien, South Vietnam, the remains were discovered on April 6, 1971, in a shallow grave north of Hue. Over the years following the Tet Offensive, the remains of thousands of civilians who had been victims of mass executions by communist forces were found.

 テト虐殺の犠牲者たちの遺体である。1968年テト攻勢で殺害された民間人の遺骨に対して、遺族が埋葬儀式を行った。1971年、南ベトナム・チュンティエンにて、遺体は1971年4月6日に、フエ北部の浅い墓から発見された。テト攻勢後の数年にわたり、共産勢力による集団処刑の犠牲となった数千人の民間人の遺体が発見された。

 テト(旧正月)の祝祭日——伝統的な停戦期間——を隠れ蓑に、北ベトナム軍(PAVN)と南ベトナム解放民族戦線(NLF)の部隊が各都市周辺に集結した。テト攻勢は当初は1月30日に計画されていたが、当局は24時間遅らせた。多くの部隊は新たな命令を受け取っておらず、6都市で戦闘が前倒しで始まった。翌夜までに、南ベトナムの44の省都のうち27、6つの自治市のうち5、245の郡町のうち58、そして50以上の集落が攻撃下にあった。ベトコン(NLF)大隊とコマンド部隊が攻撃を主導し、北ベトナム(PAVN)部隊は通常予備として待機した。攻撃目標は南ベトナム政府施設、軍事拠点、通信センターであり、共同管理の空軍基地や不メリカ大使館などの重要施設を除き、アメリカ軍は回避された。NLFゲリラは道路上で南ベトナム住民に呼びかけた。

 北ベトナムとベトコンは反乱を引き起こすことに失敗したテト攻勢は、軍事的には多大な犠牲を伴う失敗に終わった。民衆蜂起が起きなかったため、兵力が少なかったほとんどの攻撃は自殺的な襲撃に過ぎなかった。戦闘大隊の大半は、ケサン包囲戦に対抗するため第1軍団戦術地帯(CTZ)に展開された。



1/25/2026

In the 1930s, Joseph Stalin deliberately caused a famine in the Soviet Union to force peasants onto collective farms. Farming families suffered greatly, and millions died of starvation, primarily in Ukraine and southern Russia.

1930年代に、当時ソ連ではヨシフ・スターリンが集団農場への強制移住を目的として、大飢饉を引き起こした。農家の家族もその被害に遭って、ウクライナや南ロシアを中心に数百万人規模の餓死者が出た。1930年代初頭のソ連では、スターリンが急進的な社会主義化政策を強引に推し進めた。その中核をなすのが農業の集団化政策であった。

 個々の農民が所有した土地や家畜を国家管理の集団農場(コルホーズ)に統合し、農業生産を国家の統制下に置いた。この政策は農民の意思を無視した強制的なもの、多くの農民が「富農(クラーク)」として弾圧され、財産を没収され、追放や処刑の対象となりった。 当時のソ連社会では、農民は国家政策の影響を最も直接的かつ過酷な虐待に受ける存在であった。

 この過程で引き起したのが大飢饉であった。農産物は国家に過剰に徴発され、農村には食料がほとんど残らなかった。移動や取引の自由も制限され、人々は飢えから逃れることすらできなかった。この大飢饉は政策によって引き起こされた人災であった。

 ミハエル・ゴルバチョフ故大統領の家族もその被害を直接受けた。彼が幼少期から国家権力の暴力性や、理念を優先して、人間の生活や尊厳が踏みにじった現実を身をもって体験していた。後年に、彼が「人間の顔をした社会主義」や改革路線を志向し、強権的な体制を批判的に見つめる姿勢を持った背景は、幼少期の経験が大きく影を落としていた。



 

1/24/2026

Dead German soldiers at the Battle of the Somme. The British fired over a million shells at the German trenches for five days. Most escaped harm by digging very deep dugouts (German spy planes had seen men getting ready to attack) but this dugout suffered a direct hit.

 ソンムの戦いで砲弾の直撃を受けた塹壕で死亡したドイツ軍兵士の死体が散乱した。イギリス軍は5日間で100万発以上の砲弾をドイツ塹壕に撃ち込んだ。大半は深く掘った塹壕で被害を免れた。ソンムの戦いは、1916年7月1日から11月19日まで勃発した第一次世界大戦でも最も悲惨な戦いの一つであった。この4か月半にわたる戦闘で、イギリス軍は40万人以上、フランス軍は20万人、ドイツ軍は約45万人の兵士を失った。イギリス。フランス軍の両軍は、わずか15Kmの領土を獲得して、勝利と見なしたが、その代償は甚大であった。

  ソムルの戦いの前に、イギリス軍の将軍たちはイギリス軍兵士たちに「砲撃が敵であるドイツ軍を殲滅するから、お前たちは戦場に赴く前に敵は消えている」と保証した。「ソムルの戦いの初日に、イギリス軍兵士は2万人が戦死して、3万5千人が負傷した。ヘイグ将軍はさらなる攻撃を命じて、毎回同じ悲劇が繰り返された。9月には50両の戦車を投入した。29両は戦場に到達する前に故障し、残りはすぐに泥沼に足を取られた。戦闘終了時までに、イギリス軍フランス軍は62万人、独軍は45万人の兵を失った。連合軍の最前線での前進距離はわずか15kmだった。

 第一次世界大戦中の戦死者は驚異的な数に上る。総計で約900万人が死亡した。これは4年以上にわたり1日あたり5000人以上の死者に相当する。その死者数のうち約100万人がイギリス軍とそのイギリス帝国からの兵士であった。さらに数百万人が負傷し、身体的・精神的に生涯にわたる傷を負った。イギリスでは、イギリス軍の将軍たちがイギリス軍兵士の多大な犠牲の原因だと非難した。イギリス軍の将軍たちは無能で無関心な愚か者であり、何千もの不必要な死の責任を負っていた。特に1915年から1918年まで軍を指揮したダグラス・ヘイグ元帥は「屠殺者」と呼ばれ特に批判の的となった。



1/10/2026

During the Battle of Moscow on the Eastern Front of World War II, in January 1942, the body of an unidentified German soldier lay in the snow-covered wasteland outside Moscow, as a Soviet T-34/76 tank passed by.

第二次世界大戦の東部戦線のモスクワ攻防戦において、1942年1月に雪に覆われたモスクワの郊外の荒れ地に身元不明のドイツ軍兵士の死体が横たわり、その横をソ連のT-34/76戦車が通過した。ソ連軍の宣伝写真であり、ソ連軍の T-34/76 戦車が、目撃された戦死したドイツ軍上級曹長の死体のそばの雪の荒野を横切った。 

 凍りついたドイツ軍兵士の死体が横たわった。板のように完全に硬く平らで、表現できない表情を浮かべ、道端に横たわった、カラスや犬、オオカミ、あるいは彼を食らおうとする他の動物が待っていた。まったく誰にも必要とされない、そんな死体の塊が、何千kmも歩いてここまで来た超人のドイツ軍兵士が、ロシア人がいつもの「道」と呼んでいた脇で、ドイツ軍兵士ただ「方向」と呼んだ脇で、無名のままに凍え死ぬために横たわった。

 モスクワ攻防戦は1941年10月から1942年1月にかけて、ドイツ軍はモスクワからわずか20kmまでしか到達できずに、ドイツ軍は30万人以上の死傷者を出し1941年6月の開戦から、開戦から6ヶ月で約250万人のソ連兵が捕虜となり、そのうち70万人近くはモスクワ攻防戦の最初の数週間で捕虜となった。年末までに約200万人の捕虜がドイツ軍の怠慢により死亡した。1941年12月から、ソ連軍は反撃して、ドイツ軍は大敗を喫した。



12/29/2025

Bodies of Tamil fishermen massacred by the Sri Lankan Navy while the men were at work in Palk Strait. These are the victims of more than 100 massacres carried out by either the Sri Lankan security forces or the Tamil resistance.

 パルク海峡で漁業に従事中だったタミル人漁師たちがスリランカ海軍によって虐殺された遺体が散乱した。これらはスリランカ治安部隊もしくはタミル人抵抗勢力によって行われた100件以上の虐殺の犠牲者である。タミル人はスリランカ人口の12.7%を占めて、タミル統一解放戦線(TULF)から、主要ゲリラ組織であるLTTE(タミル・イーラム解放の虎)が台頭した。

 インドのタミルナドゥ州とスリランカ北部州マンナール県との間にあるパルク海峡では、スリランカ内戦(1983年~2009年)を通じて、2025年まで継続して、タミル人漁師を巻き込んだ虐殺や暴力事件が頻発する現場となった。スリランカ内戦中に、スリランカ治安部隊によるタミル人民間人への虐殺は100件以上に及んだ。2009年のムリヴァイカル虐殺までタミル民間人の死者数は、4万人から10万人以上と推定された。

 パルク海峡の大虐殺には、マンダイティヴ海虐殺事件(1986年6月10日)で、スリランカ海軍兵士がマンダイティヴ沖で33人のタミル人漁師を襲撃して、犠牲者の多くは拷問を受け、眼球を抉り取られたり腹部を切り裂かれ、32人が死亡し、生存者は1人のみであった。クムディニ号虐殺事件(1985年5月15日)では、フェリークムディニ号に乗船していたスリランカ・タミル人少なくとも23人が、デルフト島とナイナティヴ島間の航行中にスリランカ海軍兵士によって斬殺された。ジャフナ・ラグーン/キラリ虐殺事件(1993年1月2日)では、スリランカ海軍による攻撃で、35人から100人のタミル人民間人が殺害された。ムラティヴ漁民虐殺事件(1984年12月9日)では、スリランカ内務省警備隊により18名のタミル人漁民が殺害された。 




12/28/2025

In March 1921, when German workers' struggles erupted, police arbitrarily dragged workers away, beating and shooting them in front of silos. Over 50 workers were brutally murdered inside and in front of silos.

 1921年3月に何十万人ものドイツの労働者の闘争が勃発して、ドイツの労働者たちは、血みどろの敗北を喫した。警察は、恣意的に労働者を連れ出し、サイロの前で殴ったり、銃殺したりした。50人以上の労働者が、サイロの中や前で殺害された。シポによって労働者たちは、残虐に殺害された。140号棟の大きなサイロは、2000人のレウナ鉱夫たちにとって、何日も続く恐ろしい監獄となった。シポはゲシュタポと刑事警察で構成され、保安局(SD)の一部であった。

 レウナはドイツ最大の化学工業団地の一つであった。サイロの食器はわずか160セットしかなかった。最初は外出は禁じられていた。その後には、警備隊による屈辱的な行進が課せられるようになった。捕虜たちは批判や攻撃の格好の的だった。1921年3月29日に、レウナ工場の前にあるドイツ国防軍の大砲が、6時50分に、ロイナ工場に砲撃が開始され、8時頃に、レウナ工場にシポの襲撃が始まった。レウナ工場の労働者は激しい抵抗するも、弾薬不足によりレウナ工場の労働者の抵抗は崩壊した。

 シポとドイツ帝国国防軍が、無防備な捕虜となった労働者たちに無数の殺害を犯した。レウナ工場では、42人の労働者が治安警察によって殴殺された。シュラプラウの石灰採掘場では、無関係な6人の労働者が銃殺された。公式の調査、72人の労働者が殺害されたと報告された。一方、労働者側は、地主ヘス氏1人だけを射殺した。住民防衛隊が家屋から労働者部隊を背後から銃撃した。住民の銃撃者らは、労働者たちに平手打ちや拳で殴られるだけで済んだ。レウナ工場占領後は、散発的な戦闘しか発生しなかった。労働者は孤立して消耗し尽くした。労働者はゼネストにほとんど応じなかった。



12/27/2025

During the Sino-Soviet border conflict, on March 2, 1969, Soviet forces attacked the positions of a Chinese battalion on Damansky Island. The Chinese positions collapsed, and the bodies of Chinese soldiers were scattered across the snow.

 中ソ国境紛争にて1969年3月2日に、ソ連軍はダマンスキー島の中国大隊の陣地を攻撃した。中国軍の陣地は崩壊して、中国軍兵士の死体が雪上に散乱した。3月2日の戦闘で、中国軍側はは中国軍の死傷者は29人、ソ連軍側は死傷者58人と報告した。ソ連軍側は、島上と凍った河川上で248人の中国軍兵士が死亡したと報告した。ソ連国境警備隊は32人が死亡、14人が負傷した。紛争は1969年3月2日から1969年9月11日まで継続した。

 1969年3月の中ソ国境紛争は、主にダマンスキー島のウスリー川にて深刻な武力衝突が勃発した。両共産主義大国間の冷戦緊張が頂点に達した。核戦争寸前までエスカレートした事態が続いた。1969年3月2日に、中国軍が珍宝島(ロシア語:ダマンスキー島)でソ連国境警備隊を待ち伏せ攻撃し、数十名のソ連軍兵士を殺害した。紛争は1960年の北京条約の解釈の相違に端を発した。3月15日には、大規模な血みどろの戦闘が発生した。重砲火を伴い、数千の兵士が関与し、双方に多大な犠牲者(各軍側に約70人)が出た。ソ連は核報復をほのめかし、中国は新興の核戦力を最高警戒態勢に置いた。戦闘中に、中国軍はソ連製T-62戦車を鹵獲し、後にこれを逆設計して中国の69式戦車を開発した。 

 中ソ国境紛争の危機は1969年9月までに外交的に収束した。紛争は中国の指導者である毛沢東と周恩来と、ソ連のニキータ・フルシチョフ書記長のに脅威が現実と確信させた。中国の戦略的転換を大幅に加速させて、アメリカへの秘密の接触へと導くき、最終的に1972年のニクソン大統領の訪中につながった。中国が奇襲攻撃を想定して核戦力を初めて唯一に全面動員した。



12/26/2025

On the Western Front during World War I, the bodies of three German soldiers who had been killed in action were scattered among the ruins of the trenches at the Battle of Passchendaele on July 31, 1917.

 第一次世界大戦の西部戦線にて、1917年7月31日のパッシェンデールの戦いで、塹壕の残骸の中で戦死した3人のドイツ軍兵士の死体が散乱した。土塁の塹壕に至るまで、ドイツ軍兵士の死体が地獄の激流のように絡み合い、結びついた。泥まみれの塹壕にて混乱の塊の中に埋もれた。障壁には、他の死体の中に固定され死体、突き刺さった別の死体が陰鬱な場所に散乱した。

 パッシェンデールの戦い(第三次イープル会戦)は、第一次世界大戦の西部戦線にて、1917年7月31日から11月6日までに連合軍とドイツ軍の双方ともに甚大な犠牲を払い、泥と血の凄惨な戦状に陥った。1917年、連合軍は戦争を決定づける突破口を開くために、1914年以来連合国が占領していたイープル突出部を突破する攻勢を計画した。それはイープル周辺の制高点を占領し、さらに東方の重要鉄道の分岐点を掌握した上で、ドイツ軍が占領するベルギー沿岸の港湾へ侵攻する作戦であり、港湾はUボート作戦にとって極めて重要であった。パッシェンデール地方の戦闘は、100日以上も続いて、その間、連合軍はわずか約8km前進しただけで、連合軍32万5千人、ドイツ軍26万人の兵士が戦死、負傷、または行方不明となった。連合軍の犠牲者のうち、3万8千人がオーストラリア軍、5,300人がニュージーランド軍、1万5,600人以上がカナダ軍兵士であった。

 7月31日に開始されたパッシェンデール会戦は、絶え間ない砲撃が粘土質の土壌をかき乱し、排水システムを破壊した。数日以内に、30年で最も激しい雨が土壌を泥沼と化し、銃を詰まらせ戦車を動けなくする濃厚な泥を生み出した。やがて泥は深くなり、兵士や馬が溺れるほどになった。両軍数十万の兵士が、建物や自然の遮蔽物がほとんどない灰色の開けた地形で、爆発する砲弾、飛び散る榴散弾、機関銃の弾幕と容赦ない激しい雨の中、ぬかるんだ粥のような泥地を攻めて、反撃を繰り返した。




12/25/2025

The bodies of two U.S. Army soldiers, killed by Wild Bill Hickok, the lawless territory's sheriff, fell onto the sidewalk in Hays, Kansas.

 無法地帯の保安官であったワイルド・ビル・ヒコックにより殺害された二人のアメリカ陸軍の兵士の死体が、カンザス州ヘイズの歩道に倒れ込んだ。カンザス州のヘイズでは、1867年から1873年の間に30件の殺人事件が発生した。酒場での銃撃戦により、アメリカ陸軍の砦であったフォートヘイズの兵士の死亡事件も含まれた。町の北にある墓地は「ブート・ヒル」として知られ、1885年までに約79人の無法者の死体が埋葬された。カンザス州郡庁所在地ヘイズシティは鉄道の終着駅として、ギャンブラー、乱闘者、兵士、バッファロー狩り、売春婦、ガンマンが悪名高い町だった。

 ワイルド・ビル・ヒコックは、南北戦争で偵察兵の経歴を通じて、1867年から1870年まで、副連邦保安官を務め、後にヘイズシティやアビリーンといった無法地帯の保安官を務めた。ヒッコックの銃撃戦の評判と秩序維持への取り組みから、伝説的な地位を築いた。1876年に、サウスダコタ州デッドウッドでポーカーをプレイ中に致命傷を負った。1876年8月2日に、地元の酒場でポーカーをしていたワイルド・ビル・ヒコックを、ジャック・マコールが後頭部から銃殺した。

 20世紀の西部における銃規制と常備警察部隊が、暴力の抑制に効果があった。拳銃使いが存在したが、いずれの牛牧場町でも年間5件を超える殺人事件は発生しなかった。牛牧場町で殺害したのはハーディンとアープだけである。ハーディンは酔った勢いで、宿泊するホテルの壁を貫通して発砲し、いびき男を殺害した。アープは法執行官として、誤って2人、そのうち1人は特別警察官を殺害した。牛牧場町の年間平均殺人件数はわずか1.5件となった。