ソ連は、自分たちにとって都合が良い行動した。ある時はナチスに対して極めて厳しい態度を取り、特に彼らに利用価値がある場合には寛大に振る舞った。多くの「市民」が、しばしばナチスに反対していたにもかかわらず、「ナチス」として迫害された。
その間、1945年7月4日には「第一次統制協定」が締結され、オーストリアに対する連合国の統制体制が確立された。その最高機関である連合国評議会は、全会一致でのみ決定を下した。7月9日には、「オーストリアの占領地域およびウィーン市の管理に関する協定」が締結された。
実際、オーストリア人は連合国からの食糧供給のおかげで生き延びることができた。9月には1日あたりのカロリー配給量が1550カロリーに引き上げられた。オーストリア抵抗運動資料センターの1995年年報において、「戦争終結直後、ソ連が『エンドウ豆の寄付』によってウィーン市民の生存を確保した当時に、ドイツ国防軍の備蓄から提供された乾燥エンドウ豆以外には、ほとんど食料の在庫がなかった。『スターリンの寄付』は、ソ連からオーストリア人への貸付として提供された。 西側諸国が首都ウィーンに入城するまでには、管理協定と占領区域協定の全文が8月9日に公表された。
オーストリアは公式には「4分割」されたが、内政および国家政治の面では依然として二分された状態にあった。西側の連邦州が、ロシア占領区域にあるレナー政権とそう簡単に統合するは確実ではなかった。ドイツのように国が分割される可能性も、その兆しとして存在していた
しかし、8月20日、西部諸州の会議はレナー政権と協力することを決定し、9月24日と25日には、ニーダーエスターライヒ州議事堂にて、オーストリア全土の州会議が初めて開催された。レンナーは、国家の統一を維持する必要性を改めて訴えた。彼は今秋にも総選挙を実施するよう強く求めた。国家としての存在を確立し、分割されない州の統一を保つ新しいオーストリアは、選挙を通じてのみ、一刻も早くその正当性を認められるはずだった。
