4/16/2026

In April 1945, Mussolini and his mistress were captured while attempting to flee to neutral Switzerland and were executed by Italian partisans.

 1945年4月、ムッソリーニとその愛人は、中立国スイスへの逃亡を図ったところを捕らえられて、イタリアのパルチザンによって処刑された。イタリアのパルチザンはイタリアの広範な地域をドイツの支配から解放することを望んでいたが、実際には小規模な作戦の遂行のみ成果を上げた。1945年春、イタリアではゲリラ活動が再開されたが、イタリアのレジスタンスが収めた実質的な成果といえば、1945年4月にスイスへ逃亡しようとしたムッソリーニとその愛人を処刑したことぐらいであった。

 対照的に、イタリアでは、降伏後に活動を開始したパルチザンが連合軍に味方したものの、解放地帯を確立することはできなかった。その試みは1944年9月から10月にかけてドイツ軍によって容易に鎮圧され、1944年11月には連合軍最高司令官アレクサンダー将軍がパルチザンに対し、大規模な作戦を中止するよう呼びかける放送を行った。

 軍事的な観点からより重要だったのは、ユーゴスラビアにおけるドイツ軍への抵抗であった。ナチスへの抵抗は、1941年3月27日の軍事クーデターを引き起こし、ユーゴスラビアの摂政であったパウロ王子が、同国を枢軸国同盟に加盟させてからわずか2日後に打倒された。これに対しドイツは、イタリア軍の支援を受けて4月6日に侵攻した。

 ユーゴスラビアという民族のるつぼにおける抵抗組織化が抱える問題と、ドイツ軍の冷酷な報復が、ミハイロヴィッチ率いるチェトニクを、ドイツ軍に対する行動を控え、戦後の状況下でセルビアの支配を再確立する将来の機会を待つように仕向けた最大の要因であったようだ。おそらく1941年の秋にはすでにこの戦略を採用していたミハイロヴィッチは、対立する共産主義ゲリラ運動の台頭により、イタリア軍やドイツ軍との完全な協力関係へとますます追い込まれていった。