広島原子爆弾の爆心地から南南東約880mにある元安川にかかる万代橋(よろずばし)が、原子爆弾から強烈な熱線を浴びた。1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下されて炸裂した直後の猛烈な熱線の閃光を浴びて、万代橋を渡っていた人と荷車などが焼失して、その影のみがアスファルト上に焼きついた記録写真が残存した。橋床にできた影から、歩く人影が想定された。長い足の影は床面におろして、片足をあげていた人影も想定された。万代橋上には、荷車をひく影や、リヤカーの影も残存した。リヤカーを引いていた人は、元安川に転落死した証言もある。広島原爆戦災誌には「橋床上に5人の通行者の影が残っていた。被爆直後は火が出て渡れない時もあったが、損傷は少なく通行できた」と記録された。さらに万代橋の床面のアスファルトには欄干の影が焼き付いていた。その柱の影は明瞭であり、柱と柱の間の鉄棒は、一番下の段が映っているだけで、二段目のものから上はボケていた。
熱線で焼き付けられた欄干の影で、原爆爆発点の高さが算出された。欄干が吹き抜けで、万代橋自体は倒壊せず、熱線で焼き付けられた欄干の影などから、地上から上空の原爆爆発点までの距離(約580から約600 m)が算出された。1945年10月26日に、アメリカ軍調査団は、原子爆弾の熱線の方向を橋上で再現した。長い影はモンペでもはいて歩いていた女性の影、短い影は片足をあげた瞬間の姿と想定された。大手町と加古町(旧町名:水主町)を結ぶ重要な生活道路と交通の要として架橋された万代橋は、広島県庁が主水町に所在して、県庁橋とも呼ばれた。1878年に木造橋として架橋された。1916年に、ドイツ軍技師が架け変えた。アスファルトの上には、欄干の柱と一番下の鉄棒の影がはっきりと映った。影の落ち方から原子爆弾の爆発の方向を算出した。1981年12月28日に、広島市の大手町と加古町を結ぶ万代橋の架け替え工事が終結して、新橋の開通式が挙行さた。万代橋の名前を残して、広島原子爆弾に被爆した欄干に影が焼き付いていた旧橋の姿は消滅した。