スターリン時代である1930年代の児童養護施設に収容された子供たちの写真である。スターリン時代に、子どもたちは国家反逆者と判定され家族から引き離されて、教育省の収容所に収容された。子どもの親たちは、ソビエト政権の敵とみなされ、逮捕、処刑、収容所に送りにされた。何百万人もの子供たちが親や家、兄弟姉妹の人間関係を失った。スターリン時代の孤児たちの親は祖国の裏切り者とされた。教師は、孤児たちに彼等の親が死のうが生きようが、子どもたちを糾弾した。スターリンの権力の座についた時代は、何百万から何千万人もの市民の虐待と虐殺の犠牲が頻発した時代であった。1917年からスターリンの死(1953年)までのソビエト連邦の最も冷酷な歴史となった。
デイヴィッド・キング(David King)牧師が、スターリン時代のソ連の市民や孤児たちの日常生活を記録していた。革命下での市民の写真、ポスター、文書などを残した。スターリン時代の冷徹の支配は、高位の共産主義者だけでなく、収容所での数年間の生活や、共産党に対する犯罪で処刑で、市民を恐怖に陥れた。内戦に伴う飢饉、ヒトラーとの戦い、ナチスの侵攻など、犠牲を受けた人々の数は、まさに天文学的な数である。
1930年代のソ連でスターリンに弾圧された両親の子どもたちは、のけ者にされ、孤児院に送られた。その収容所(Gulag)で生まれた者は、社会的に全く権利を消失した。1937年に、内務人民委員会(NKVD)長官であるニコライ・エジョフは、祖国への反逆者の妻子を弾圧する法律に署名した。祖国への反逆者の妻を、収容所で5年から8年の刑に命じた。1歳半から15歳までの子供たちは孤児院に送られた。逮捕された裏切り者の妻である約18,000人が刑務所や収容所に送られ、約25,000人以上の子供たちが孤児院に入れられた。
悲惨な状況に耐えた児童は、過密な孤児院での食事が非常に悪く、ゴミ捨て場で食物を得た。病死する児童も多くいたが、教育者たちは体罰を加えた。反ソ連、テロリストの感情や行動を抑制するために、収容された子供たちを注意深く監視した。ソ連社会では、弾圧された子供たちや家族に心理的な圧力をかけた。高官の子供でさえ一夜に亡き者にされ、豪華なアパートから孤児院に移された。子どもたちを親族に引き渡すには、多くのお役所仕事を切り抜ける必要があり、多くの家族は時間的に間に合わず、身内に注目や疑念が集まることを恐れた。弾圧された子供たちは、収容所や矯正施設、特別体制の孤児院に収監された。
収容所には何万人もの弾圧された子供たちが入り、普通の生活に戻ることができず、犯罪の裏社会に入り込んだ。祖国への裏切り者の家族に対する恐怖を伴った。収容所で生まれた子どもは、すぐに母親から引き離された。多くの強制労働収容所には、特別なバラックや孤児院があり、収容所で生まれた子供と、有罪判決を受けた母親と一緒にやってきた子供が収容された。彼らの生存は、収容所の置かれた気候、刑期、そして多くの場合、最も重要なのは収容所のスタッフ、教育者、看護師の態度にかかった。貧弱な保育のために、伝染病が頻繁に発生し、死亡率も高く、数年間で約10から50パーセントに及んだ。