1946年の戦争犯罪裁判において、南京の大量埋葬地から白骨の一部が、審査のために中国軍の士官によって掘り出された(日中戦争の真実を保存する同盟、No.43)。 南京は日本軍により1937年12月13日に占領された。わずか約6週間にわたる南京における大虐殺と蛮行が英語版で暴露された。 中国系アメリカ人のアイリス・チャンが、徹底した南京の欧米人からの調査資料、南京大虐殺の記録と写真を確保して、生存者の調査を通じた証言から、1997年に英語版の本書「The Rape of Nanking、(ザ・レイプ・オブ・南京, 同時代社)」を発刊した。南京大虐殺を忘れられたホロコーストと呼称した。「市民は、このような大量虐殺を受け入れ想像すらできないこの事件について受動的傍観者になった。それは最も悲惨な教訓だった。」欧米の第二次世界大戦の大著の中で、南京大虐殺が一節に記載されたのはロバート・レッキー「第二次世界大戦の伝説」のみであった。
日本軍は全ての目立つ南京の中国人を捕獲して、食べること飲むことも与えずに、数日間ほど抑留した。その後に中国人の捕虜たちを捕縛して連行した。 反抗もできずに、空腹で疲弊した中国人は、食事と安楽を期待して行進した。しかし、日本軍兵士が、機関銃、血剣と銃剣で殺害した中国人の死体を見た時には、逃避するには既に遅かった。日本軍は、虐殺は食糧が枯渇して、兵士の命を維持することも困難であり、中国人捕虜が反乱を起こす危険性から致し方ない事件とした。しかし、武器も反乱も起こせない無実の南京市民の虐殺を言い訳できない。採掘場の土嚢から抜け出し、揚子江の冷たい葦で身を隠ーして、死体の中で埋もれて銃傷だけで逃避できた生存者の一部の中国人が南京における日本軍の蛮行を暴いた。日本軍が入れない大使館や大学などの南京安全地帯に、数十人の西洋人が約20万人もの中国人難民を避難させた。
1937年12月13日に南京を占領した日本軍は「捕虜は残さず全部処理する」方針が指令された。 「女性と子供を問わず、中国人であれば、すべて殺害し、家を燃やす」指令も受けた。捕虜を殺害すれば食糧を確保でき、潜伏して報復するのを処理した。捕虜を12人ずつに分けて銃殺した。最初の列の捕虜を斬首した。次の2列目の中国人は、断頭した胴体を川に投げ込まされた。これでは約2,000人しか処理できずに、捕虜を一列に起立させて、機関銃を乱射した。捕虜は川に飛び込むも、向かい側の岸にはたどり着けなかった。極東国際軍事法廷は、南京で約26万人の非戦闘員が死亡したと推定した。最大規模の虐殺地域は、南京の幕府山の付近で、約57,000人が殺害された。広島原爆の約14万人と長崎原爆の約7万人の被爆死亡者数を上回った。
少なくとも2万人以上の中国人女性が強姦を受けて、残酷に虐殺された。家族間にも強姦を強要させて虐殺した。児童らは銃剣で刺殺された。日本軍が南京で運営した慰安所は、40以上も確認された。日本軍兵士が、民間人虐殺と婦女強姦、性感染症の蔓延などで、秩序が崩れて戦力低下を懸念して日本軍が設置した慰安所は、南京が最も多い都市であった。各部隊は、中国人女性を拉致したり、強制的に連行して慰安所を運営した。しかし、慰安所を設置した後も、日本軍兵士による中国人女性の強姦は繰り返された。さらに1939年4月に、日本軍は医学研究機関を設置して、Ei1644部隊が毎週140人以上もの生体実験をしては焼却した。