第二次世界大戦末期にアメリカ軍は、神戸市と周辺地域に対して無差別な焼夷爆撃を繰り返す大空襲を行った。神戸市民が無差別の焼夷爆弾による大空襲による大炎上に巻き込まれて、多くの黒焦げに焼死した死体が散乱した。特に、1945年3月17日に西神戸の兵庫区や林田区などに大空襲されて壊滅した。1945年6月5日に東神戸と阪神地域の市町村は広範囲な大空襲で壊滅した。神戸の被害地域は約21%も達した。総計の罹災者は約530,858人以上のうち、死者は約7,491人以上、負傷者は約17,002人以上と想定された。空襲の被害者を人口密度と面積の比率では、東京大空襲よりも最悪となった。
神戸と周辺地域は、1945年1月3日から1945年8月15日までに約128回もの空襲を受けた。日本本土に対して2月4日から初めて神戸に無差別の焼夷爆弾が投下されて炎上した。B29爆撃機から投下された焼夷弾が燃え上がると、その炎上を目標に次々に焼夷弾を投下した。地域が炎上に囲まれて、脱出路が塞がれた市民が焼殺された。焼夷弾は落下すると、含まれたナパーム弾が火を吹きながら滝のように落下した。
神戸の空襲から、アメリカ軍は従来の軍事施設や軍需産業への空襲から、焼夷爆弾による無差別の空襲に転換した。2月25日に東京の無差別空襲から全国の都市に繰り返された。3月10日の東京大空襲から各地の都市部に無差別の焼夷爆弾が投下されて大炎上した。 終戦までに被災した都市は、全国206都市のうち81都市に達した。