済南事件は、1928年5月3日から日本軍により大規模な中国人の虐殺が勃発したため、5月3日の虐殺とも呼ばれる。日本軍兵士は何人もの農民と子供たちを冷酷な銃剣で刺殺した。日本軍は、満州に対して第二次北伐する国民革命軍の遠征を済南で妨害した。日本軍は海外の日本人を守るという名目のもと、日本軍を済南、青島、および交通路に、4月26日から第二次山東出兵をして5月2日に済南に到達した。北伐する国民革命軍は1928年5月1日に済南を占領した。
両軍は済南での略奪と暴挙で衝突するも、5月3日から4日で済南での市街戦は終結した。日本軍は5月3日に国民革命軍によって設立された山東東交渉公署に軍隊を派遣して職員約16人を殺害した。日本人の犠牲は、約10人の死者と在留日本人は約12人が犠牲となった。国民革命軍は、すでに5月6日には城外に逃避して北伐を続行していた。
5月9日から10日かけて、約15,000人もの日本軍はすでに撤退した済南に侵攻して、5月9日から10日の総攻撃により済南を壊滅した。済南の中国人は約3,600人が殺害されて、約2,400人が負傷した。それに対して、日本軍の犠牲は死者約25人と負傷者は約157人であった。5月11日に日本軍は、済南を占領した。さらに5月9日には日本政府は第三次山東出兵を指令した。済南虐殺は、中国と海外に衝撃を与えて国際的な非難で紛糾した。