長崎原子爆弾が1945年8月9日に投下されて炸裂して、爆心地から約1kmの浦上駅は崩壊した。その後に浦上駅の駅舎に、小さなバラックを急造した。10月中旬に浦上駅のバラックにてイモの配給が始まった。被爆してから壕舎生活をしていた長崎市民が集合して、待機する列がができた。当時は着る物食べるものは満足になく、何でも配給切符制度であった。
長崎本線の浦上駅は、長崎市岩川町のほぼ中央に位置していた。爆心地の南に約1kmの地点であった。国鉄の長崎本線の線路を隔てて向こう側に、三菱製鋼長崎製鉄所と接していた。浦上駅も喪失して、建物も人も突然焼滅して、一面が焼野原で燃え残った木の幹が所々に点在した。もろもろの残骸や瓦礫の層、くすぶり続けている建物の断片が散在した。浦上駅は、駅舎が全壊して、約70人の国鉄職員のうちで、約20人は即死した。長崎原子爆弾の被爆後に約45人が原爆病で死亡した。
三菱製鋼長崎製鉄所は、写真の左から右に、長崎製鉄所の第4工場、第一工場機械工場、第1工場鍛造工場、本館、変電所、第2工場鍛造工場のいずれも崩壊した。長崎原爆の爆風のために、壁体の鉄骨が、基部の支柱との接点で屈曲して、著しく傾斜した。壁とトタン屋根が吹き飛び、鉄骨がむき出した。浦上駅裏の三菱製鋼所は、燃え盛り、音を立てて鉄骨が崩れ落ち、爆風で曲がり折り重なった。従業員の総数は約5,300人で、8月9日被爆当日に勤務者は約3,300人で、半数交代制により午前11時2分には約1,700人が勤務していたと推定された。約1,700人他にも、動員学徒、女子挺身隊、海軍工作隊員が加わっていた。その中で、約1,400人が長崎原子爆弾爆弾に被爆して死亡したと推定された。