太平洋戦争の沖縄戦後の洞窟内に残った沖縄師範学校生徒の多数の死体から白骨が発掘された。沖縄戦では、男子部・女子部ともに生徒らが戦場に動員され、その多くが死亡した。師範学校生徒の多くからひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊が構成され、たくさんの犠牲者を出した。教員の養成機関であった沖縄師範学校は太平洋戦争中の1943年に設置され、唯一戦後の新制大学への継承関係を持たない師範学校であったが、沖縄戦で校舎を失ってしまった為、後身校を持たず廃止となった。
1945年3月31日に、沖縄師範学校生徒に召集令が下り、予科2年から本科3年まで約386人は鉄血勤皇師範隊を編成して、日本軍の作戦の沖縄戦に参加した。アメリカ軍が1945年4月1日に沖縄に上陸して5月下旬、沖縄戦が不利になり、日本軍とともに首里から南部へ移動し、摩文仁の壕まで退却した。6月19日、解散命令の出た後は、アメリカ軍に斬り込む者や壕内で自決で自殺する者など多くの犠牲者を出した。
ひめゆり学徒隊とは、1944年12月に沖縄県で日本軍による看護訓練によって作られた女子学徒隊のうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で構成された。敗色濃厚となった6月18日に突然解散命令が出され、6月19日から約1週間の間に約227人が絶命した。壕を出た生徒たちは、茂みや岩陰に身を隠し、海岸へと追い詰められた。砲弾の飛び交う中、戦傷した体で逃げる者、重傷で動けず倒れる者、砲弾に吹き飛ばされた者、黄リン弾攻撃を受けた者、手榴弾を爆発させ自決した者、海岸で大波に水没する者など、戦傷で行き場を失って、絶命する生徒が続出した。戦跡「ひめゆり塔」がある沖縄陸軍病院第三外科が南部撤退後に入った壕である伊原第三外科壕に、ひめゆり学徒を含む陸軍病院の看護婦や兵隊、住民など約100名が隠れたが、6月19日早朝にアメリカ軍の攻撃を受けて、約80人が死亡した。
天皇を崇拝する皇民化教育と軍国教育も、教師育成の学校であり、特に徹底された。学徒の招集の際には、法的根拠がなく自主的に参加するという扱いであり、親の許可も必要でした。沖縄師範学校のほとんど生徒は、学徒隊として参加した。