クメール・ルージュによる処刑、強制労働、飢餓、病気から生還したカンボジア人が、タイとの国境を越えることもあった。タイでは、カンボジア難民の弱者は疲労と病気で死んでいった。1979年11月までには、ジャーナリストがタイの国境に集まり始めた。そのうちの一人が、ガンマ/リアソン社で働くフランス人写真家であるアルノー・デ・ウィルデンバーグ(Arnaud de Wildenberg)が撮影した。カンボジア難民の多くはタイのアランヤプラテートの南にあるバン・タプリックに到着した。赤十字はそこで難民を選抜して、新しい難民キャンプが建設されたサカオに運送した。多くの人が周囲の森で倒れ、それ以上歩くことができなかった。サカオでは、クメール・ルージュが他の難民を脅し続けて、しばしばカンボジアのクメール・ルージュ支配地域への自発的送還を受け入れさせた。
1979年半ばは、クメール・ルージュはまだカンボジア地域を支配していた。ベトナム軍のカンボジア侵攻が迫りつつあった。クメール・ルージュはタイ国境沿いの救援活動が利益になると考えた。クメール・ルージュは、国境を越えたところに武器を隠し、罪のない難民を装った。ベトナム軍に対するゲリラ攻撃に戻った。1978年12月25日に、ベトナム軍はカンボジアに侵攻し、間もなく国土の大部分を占領し、親ベトナム政府を樹立してカンボジアを統治し、1979年1月10日にカンボジア人民共和国が成立した。クメール・ルージュの残党はタイとの国境近くのカルダモン山脈に退却し、カンボジア西部では他の抵抗運動が勃発した。
クメール・ルージュが以前に仕掛けた地雷やブービー・トラップが、カンボジア難民たちに大きな犠牲をもたらした。食料と新鮮な水の不足は、難民の疲労や病気に拍車をかけた。カンボジア難民がタイに押し寄せるようになってから、カンボジアの悲劇の犠牲者の増大が国際的に広く知られた。
カンボジアの荒廃は、ベトナム共産主義者がカンボジア領土をゲリラ活動の拠点として使い始めたベトナム戦争に端を発した。アメリカ軍は疑われたカンボジア拠点地域を攻撃することで対抗した。ベトナム人は拠点を離れると、カンボジア政府軍との戦闘に巻き込まれた。ベトナム人はやがて、カンボジアの反政府勢力の代理人として登場した。戦闘がエスカレートするにつれ、反乱軍であるクメール・ルージュは急速に勢力を伸ばした。包囲されたカンボジア政府は1975年4月17日に降伏した。