アメリカ軍の海兵隊員は、ハイチにてシャルルマーニュ・マセナ・ペラルテ(Charlemagne Masséna Péralte)を1919年11月1日に暗殺した。ペラルテの死体は、ヒンチの町のドアに釘で打ち付けられた。アメリカ軍が死体を撮影して写真を公開して、ペラルテの残存信者の士気を下げようとした。アメリカ軍による処刑後に、カコスの指導者ペラルテの死体が展示された。逆効果で、イエスの十字架からの降下に類似して、ペラルテは国民的殉教者の栄誉を得た。
ペラルテはハイチの民族主義指導者で、1915年のアメリカ軍によるハイチ占領に抵抗した。カコス(Cacos)と呼ばれるゲリラ戦闘員を率いて、ハイチに駐留するアメリカ軍に挑戦を叩きつけた。深刻な内紛が始まり政府が再び転覆したハイチに、ウッドロー・ウィルソン米国大統領は、1915年7月にアメリカ海兵隊を派遣して、ハイチを侵攻した。アメリカは1915年から1934年までハイチを占領した。ペラルテはレオガン市軍司令官だった。1918年9月に強盗事件の逮捕から逃亡して、ペラルテはハイチ北部に臨時政府の樹立を宣言した。数千人の農民非正規兵を動員して、1919年10月7日にポルトープランスを含むアメリカ軍の軍事施設を攻撃した。ペラルテは将校の一人であるジャン=バティスト・コンゼの裏切りに遭い、変装したアメリカ海兵隊軍曹ハーマンH.ハンネケン(後にその功績により少尉に昇進)とウィリアム・バトン伍長を率いて、グラン=リヴィエール=デュ=ノールは、変装して夜陰にまぎれてグラン・リヴィエール近くの反乱軍キャンプに侵入した。1919年11月1日にペラルテは至近距離から背中の2発から心臓を撃たれて暗殺された。ハンネケンとその部下たちは、ペラルテの死体をロバに縛り付けて逃走した。
殺害されたペラルテの遺体はヒンチェで公開された。ハイチ住民からの反政府勢力の支持を思いとどまらせるため、アメリカ軍はペラルテの死体をドアに縛り付けた写真を撮影し、国内で配布した。しかし、それは逆効果となり、十字架刑に似たその画像はレジスタンスの象徴となり、ペラルテを殉教者として定着させた。1934年には世界恐慌の影響や、ニカラグアでのサンディーノ軍への苦戦などもあって、ルーズベルト米国大統領の善隣外交政策により、ハイチからも海兵隊が撤退することになった。