日露戦争にて激戦地となった旅順要塞がある松樹山付近には、ロシア軍の陣地や塹壕などに弾丸の危害を防ぐために設けた屋根である掩蓋と白骨化した頭蓋骨が散乱した。
ロシア軍は太平洋艦隊の最大の根拠地とするため、1898年に清国から租借権を得て占領して以来、約8年をかけセメント約20万樽を用いて築城した要塞であった。各堡塁は全てコンクリートで練り固められ、地下道で結ばれた。約百数十門の重砲と火器と強力な機関銃を配備した。正面の本防御線は、東北、西、北の3正面に区分され、白銀山、東鶏冠山、二竜山、松樹山、椅子山、太陽溝高地等の線であった。大孤山・小孤山、水師営南側、203高地等には前進陣地があった。203高地は、旅順港内を一望に観測できる要地であったが、前進陣地にすぎず、わずかな応急陣地だけであった。日本陸軍と大本営は、ロシア軍による旅順要塞の強化を認識していなかった。
日本軍の第1回総攻撃は、1904年8月19日から砲兵部隊により、8月20日まで砲撃をした。8月21日に歩兵部隊による総突撃を命じた。ロシア軍堡塁は健在で、遮蔽物のない暴露地帯を侵攻する日本軍は、各砲台から火力にさらされ、日本軍兵士はバタバタと倒れて戦死した。連続6昼夜の総攻撃は、参戦した約50,700人のうち約31%にあたる約15,800人の死傷者を出した。8月24日に乃木司令官は攻撃中止を命じた。第2回総攻撃は、10月26日に開始した。11月1日までに、鉢巻山、一戸堡塁、瘤山を奪取したのみで停滞した。第2回総攻撃に参加した日本軍は約44,100人で、そのうち約3,830人の戦死者を出した。ロシア軍陣地前面には日本兵の死体が累々と横たわった。第3回総攻撃は、望台一帯の高地に向かって11月26日から11月29日まで、28インチ砲でロシア軍の要塞に激しい砲撃した。11月30日に歩兵が突撃を開始した。決死隊である白襷隊の約3,100人は、夜間の正面攻撃を敢行して、約2,300人が戦死して部隊は壊滅した。
203高地を11月27日から12月5日に攻略した。11月31日に203高地を一時占領したが、すぐにロシア軍に奪回された。司令部にて、児玉大将が第3軍の指揮権を乃木大将から委譲させた。直ちに重砲兵部隊を高崎山に移動させ、12月4日から重砲兵部隊はロシア軍の主要砲台を徹底的に砲撃した。ロシア軍の砲台は12月4日に壊滅した。12月5日に歩兵部隊が突撃を敢行して、203高地頂上を占領した。12月6日ついに全山を完全に占領した。第3回総攻撃から203高地占領までに、参戦した日本軍兵士約64,000人のうち、約17,000人の死傷者を出した。
203高地が占領すると、12月5日に旅順港内の軍艦や港湾施設に砲撃を加えた。12月6日までに旅順艦隊は全滅した。12月18日には東鶏冠山堡塁、12月28日に二竜山堡塁、12月30日に松樹山堡塁が陥落した。1905年1月1日に185高地を占領して、日本軍がまさに旅順市街に突入直前に、白旗を掲げたロシアの軍使が前哨点に現れ、降伏文書を提出した。