12/06/2023

The body of a dead child, a casualty of a major battle between German and Soviet forces in 1944 at the Battle of the Dnieper River, lay on the riverbank. One Soviet Red Army soldier knelt by the child's body to watch and mourn.

ドニエプル河畔の戦いにて、1944年のドイツ軍とソ連軍の大規模な戦闘に巻き込まれて、犠牲になった子供の死体が川岸に横たわった。一人のソ連赤軍の兵士が、子供の死体の側に跪いて見守って追悼した。

 1943年夏のクルスクの戦いでの敗北後に、ドイツ軍は戦争の主導権を完全に失って、急速に西方へと後退し始めた。ソビエト連邦の主要な河川であるドニエプル川は、東壁の要素だった。ドイツ軍がドニエプル川の西岸に足場を築いて、ソ連赤軍の攻勢を阻止を目論んだ。クルスクの戦いが終結してわずか約3日後の8月26日に、ソ連軍はスモレンスクからアゾフまでの約750kmの前線に大規模な攻勢を開始した。1943年8月26日から12月23日のドニエプル河畔の戦いは、両軍合わせて約400万人もの兵士を動員して、史上最大の戦いの一つとなった。

 ドイツ軍は急遽に、ドニエプル川を渡り避難できるものはすべて避難させた。9月7日、ドイツ軍と親衛隊は、放棄するソ連地域から全て取り除く焦土化政策の命令を受けた。9月24日に開始されたソ連赤軍のドニエプル空挺作戦は頓挫して、約3000人以上の落下傘部隊が戦死した。ソ連赤軍はドニエプル川を渡る機会があれば、単独でも西岸に渡り、そこで橋頭堡を確保した。ドイツ軍の反撃を退けてからソ連赤軍の攻勢に転じた。ドイツ軍が防備を固める時間がなく、両軍の絶え間ない砲火の中で激しい戦闘が繰り広げられた。ドニエプル川を渡って、川の水が血で真っ赤に染まり、何百人もの兵士が目の前で戦死した。

 ドイツ軍は、川を渡ったソ連軍を即座に襲撃して、川に投げ返そうとした。主力部隊が到着する前に確保した橋頭堡を守るために、ソ連赤軍師団は最大で人員の約70%を失った。ドニエプル西岸をめぐる激しい戦闘は1943年10月末まで続いた。ソ連赤軍はウクライナ西岸に重要な橋頭堡を築くことに成功した。ソ連軍が南部のザポロジエ橋頭堡を保持し拡大して、クリミアのドイツ軍を陸地から遮断した。11月6日、キエフが解放された。ドイツ国防軍は1カ月半にわたりキエフの奪還を試みた。12月の最後の10日間、疲弊し衰弱したドイツ軍の攻勢が12月23日についに終結して、ドニエプル河畔の戦いは事実上終結した。ドニエプル川の戦いは、約40万人のソ連軍兵士が死亡して、ドイツ軍兵士は最大で30万人が死亡した。2022年2月24日のロシア侵攻によるウクライナ南部の一部で幅約kmを超えるドニエプル川沿いの戦いは、約80年前は大きな転換点となったが、ウクライナ軍も同様に甚大な犠牲を伴う。