1938年10月に日本軍の戦闘機による広東省の北海の爆撃により、中国軍兵士が殺害された。日本軍が羅芳遺跡を占領した後に、屋外の階段に中国軍兵士の死体が並べられた。日本軍が広東省を攻撃した時に、中国軍兵士の死体を路上の階段に安置した。中国軍兵士の服はすでに破れて、顔はほとんど判別できないほど損傷した。日中戦争がいかに悲惨であったかを示唆した。日本軍は、中国軍兵士の死体を前にしても、容赦なく侵攻した。
1937年12月13日に首都南京の占領に勢いづいた日本軍は、1938年に入ると、一層に積極的な中国侵略に踏み出した。1938年5月には、華北と華中を結ぶ重要地点にある徐州を占領した。8月から10月にかけては華中の揚子江中流域の中心地・漢口、華南の中心都市・広東への攻撃と占領があいついだ。なかでも漢口攻撃は大激戦となり、マラリアによる犠牲者もでて、日本軍は2万2000人にのぼる戦死傷者をだした。
日本軍の広東攻略戦は10月12日バイアス湾に奇襲上陸を敢行して勃発した。上陸した各部隊は、一挙に内陸部まで侵攻して、10月15日には恵州を占領して、10月19日には増城を占領した。広東方面の中国軍は武漢防衛のため兵力を割かれて、迎撃は散発的となった。日本軍は10月21日に広州に入城した。一方で、主力と分かれ珠江を遡行して虎門要塞と三水を占領した第5師団も広東攻略を展開して、10月29日には広東入りして第21軍主力と合流して広東攻略が完結した。
日本の軍部は、1938年末までに全中国の武力支配の完成をねらっていた。しかし、首都を重慶にうつした蒋介石は、「全国軍民に告ぐるの書」を発表して長期抗戦の決意をあらわし、中国共産党の毛沢東は、全民族の統一と団結で長期持久戦を戦い抜く訴えた。日本は、中国侵略のために約100万人をこえる兵力を出しているにもかかわらず、広大な国土をもつ中国では、都市とそれを結ぶ鉄道の点と線の支配を保つのが精一杯で、いつ果てるともしれない長期戦の泥沼にのめり込んでいった。