ヒロ(Hilo)の大虐殺は、ブラッディ・マンデイとも呼ばれ、1938年8月1日にハワイ州のハワイ島の北東部のヒロで発生した事件である。約70人以上の警官が ストライキ中の非武装のデモ隊約200人を解散させようとし、デモ隊のうち約50人を負傷させた。群衆を解散させようとした警察官は、催涙ガス、ホース、最終的には機動隊は、銃をストライキの抗議者に向けて発射し、約50人の負傷者を出した。大虐殺には至らず、死者は出なかった。
中国人、日本人、ネイティブ・ハワイアン、ルソ、フィリピン系アメリカ人などさまざまな民族の抗議者であった。国際港湾労働組合など、さまざまな労働組合の抗議者であった。長い間対立していた異なる集団が、その差異を捨てて、インター・アイランド・スチーム・ナビゲーション・カンパニー(Inter-Island Steam Navigation Company)に抗議した。港湾労働者ハリー・カモク(Harry Kamoku)に率いられた組合は、アメリカ西海岸の労働者と同等の賃金、クローズド・ショップやユニオン・ショップを要求した。1935年11月22日に、カリフォルニア出身の活動家ハリー・カモクが、ハワイ初の多民族組合であるヒロ港湾労働組合を組織した。
ストライキは1938年2月4日に始まり、オアフ島ホノルルで、SSフムラ号、SSハワイ号、SSワイアレ号、SSフアラライ号の4隻の汽船からの荷揚げを中止させた最初の抗議活動を起こした。8月1日にインターアイランド・スチーム・ナビゲーション・カンパニーが所有する蒸気船SSワイアレールの到着に対して抗議した。ハリー・カモクはペペケオ岬の沖合で汽船を発見し、午前8時30分には組合員の大半が到着した。全員で約200人のデモ隊が押し寄せた。警察は労働者たちに、船に乗ることも、近づくことも許されないと告げた。約200人の労働者が集まったときにデモは頂点に達した。デモ隊は解散を命じられるも従わずに、警察の武力行使が執行されて、負傷した入院者が出た。警察は最初に約12個の催涙弾を群衆に投げ込んだ。警察は消防車のホースからデモ隊に海水を噴射した。警察が、銃剣でデモ参加者の背中を刺した。午前10時20分頃に、警察本部長は警官に群衆に発砲するよう命じた。少なくとも16発の弾薬が発射され、女性2人と子供2人が撃たれ、発砲は約5分ほど続いた。