3/20/2023

Two soldiers from the SS and SD searching the clothes of a murderd Jewish partisan for weapons and documents, Ausweispapieren, (Mountains near the Crimean) at 1942.

 第ニ次世界大戦の東部戦線にて、1942年冬にクリミア半島南部のジャイラ山脈で、ドイツ軍親衛隊はパルチザンを銃殺した。その死体の衣服から武器や身分証明書を探し出した。1941年から1942年末のパルチザン集団には食糧基地の喪失と飢餓がゲリラ運動に損害を与え、ほとんどのパルチザン部隊で飢饉が出現した。ドイツ軍占領当局は、地元のタタール人をパルチザンに対立させた。ドイツ軍の恐怖が、すぐに住民を征服者に対抗させた。

 クリミアのパルチザンは、戦争の残りの期間もジャイラ山脈に住み続けた。ナチス・ドイツ軍の占領下のクリミアでは、約200以上の地下組織や約2,500人規模のグループが活動し、ゲリラが鉄道のサボタージュやドイツ軍の守備隊を攻撃した。ドイツ軍は、彼らを鎮圧するための無駄な報復、人質、大量射殺と悲惨な戦術に頼った。ソ連から弾圧を受けていた少数民族のクリミア・タタールの民族主義者は、現地人やゲリラと戦うドイツ軍の懲罰的な分遣隊に協力した。1941年末から1942年初めにかけて、ドイツの懲罰部隊はフェオドシアで約12,000人、ケルチで約7,000人を射殺した。何千人もの人々がクラスニー強制収容所などに入れられた。

 1943年7月にクルスクの戦いでドイツ軍はソ連軍に大敗した後に、ソ連軍の大規模な反撃をした。赤軍はドニエプル川から越えて侵攻した。ソ連軍の大侵攻の過程で、再びクリミアを封鎖して、ドイツ軍をクリミア半島に封じ込めた。1944年4月8日に、ソ連軍はクリミア半島北部で攻勢を開始して、約3日後にクリミア東部からドイツ軍を一掃して、5月9日にセヴァストポリを完全に赤軍が占領してクリミアは征服された。クリミア・タタール人はクリミアの領土から追放され、5月18日から6月1日までにウズベキスタン親衛隊の地域に特別な入植者として永久に再定住された。

 ソ連時代の大半は、クリミアはロシア共和国の一部でとなった。1954年にソ連政府はウクライナ共和国に移管した。ソ連崩壊後に、1997年5月に分割条約によってロシアとウクライナは、クリミアを新たに独立したウクライナが保持するを合意した。2014年3月に、ロシアは急遽実施された住民投票により同半島を併合し、大きな国際危機を引き起こし、その後2022年2月24日のロシア軍のウクライナ侵攻の起点となった。