秋田県花岡における1945年6月30日の花岡蜂起で、虐殺された中国人の骸骨の写真を、アメリカ軍が花岡事件に関する資料として提出した。日本人監督約5人が殺害されて、約113人の中国人労働者が、暴動の鎮圧のために日本の警察と軍隊によって殺害された。花岡周辺の農民も、投石や竹槍を持って、警察や軍隊と一緒に、中国人を虐待と虐殺して、広場には死体が散乱した。
中国から強制連行された中国人労働者が、この世の過酷な労働に従事して、用水路の建設をした。木片で作った小屋に住み、毎日約15〜16時間の超過酷な作業を強制された。どんぐりラーメンやりんごの絞りかすで空腹を満たした。厳冬期になっても、労働者は単衣にわらじを履き、凍えるような寒さと泥水の中で強制労働した。厳しい飢えと疲労に加えて、残忍で残酷な鹿島建設の監督者による殴打や拷問が加わって、毎日多くの労働者が殴打され、拷問から虐待と虐殺された。わずか半年の間に、200人以上が拷問されて虐殺された。耐えられない中国人は、1945年6月30日に死をもって蜂起で抵抗することを決意した。
終戦後の1945年10月に、アメリカ軍占領当局は花岡事件の調査を開始した。花岡事件で死亡した中国人労働者は約418人(暴動で死亡した113人を含む)に及んだ。花岡事件の裁判に、虐殺された中国人の骸骨を提出した。日本の他の強制労働収容所に比べてはるかに高い殺害割合であったことを公表した。鹿島組監督のうち3人はB・C級戦犯として死刑、1人は無期懲役、2人は懲役20年の判決が下された。その後減刑されて、1995年までに全員が釈放された。
1984年12月22日に、生存者の団体が鹿島建設に謝罪および記念館の設立、補償を求める公開書簡を提出した。鹿島建設と補償問題で交渉が決裂した。遺族・近親者の団体は、1995年6月28日に総額6,050万円の補償を求める訴訟を東京地方裁判所に提起した。東京地裁は、時効を超えた理由で訴訟を却下した。1995年12月12日に判決を不服として東京高等裁判所に控訴した。中国政府が被告側の要求を強めて険悪な裁判の審理が続いて、2000年5月31日に東京高等裁判所が遺族と近親者に5億円を負担する妥協案が、被告側を代表して中国紅十字会が受諾した。最終的な和解は2000年11月29日までに鹿島建設が行った。将来に日本企業が戦時中の戦争犯罪に対する賠償請求を行う際の先例となった。