第二次世界大戦の東部戦線にてドイツ軍兵士は、1941年の夏にソ連の占領地で、ロマの大量処刑を執行した。ドイツ軍兵士による銃殺は、ソ連領内のドイツ軍東部戦線の中央部の最前線近くで行われた。虐殺された膨大な死体群は、塹壕墓地に埋められて隠蔽された。その詳細な処刑場所は不詳である。
1941年6月22日に、宣戦布告もなくドイツ軍は一斉にソ連を侵略した。ナチス親衛隊の特別出動部隊であるアインザッツグルッペン(移動虐殺部隊)が、バルト三国からカーフカース山脈にいたる地域を掃討して大量虐殺した。ユダヤ人だけでなく、スィンティとロマ、共産党幹部、障害者などを敵対者として探索しては虐殺した。子供や女性を含めて虐殺された膨大な死体群は、塹壕墓地に埋められて隠蔽された。ドイツ軍の一部や戦地の警察大隊なども、ナチス親衛隊を支援して大量虐殺した。リトアニアやベラルーシなどでは捕獲したスィンティとロマなどは、アウシュビッツ強制収容所にも強制送還された。
ジプシーの起源は中世にもさかのぼり、様々な地域や団体を渡り歩く少数民族の蔑称であった。スィンティは中世後期以降にドイツも含めた中部ヨーロッパに定住していた少数民族で、ロマは南東部ヨーロッパにいた少数民族であり、少数民族は差別的な呼称を拒否している。1933年にナチスが台頭する前までは、スィンティとロマは、ユダヤ人たちと同じようにドイツの社会的生活や地域の中に溶け込んでいた。第一次世界大戦では多くの少数民族の人々も帝国軍人として従軍して、高位の勲章を授かった者も少なくはなかった。ナチス・ドイツの台頭によって、スィンティとロマはユダヤ人と同様に、乳児から老人に至るまで捕らわれて、生存権を奪われて、ゲットーへ押し込まれ、最終的には死の強制収容所へと送還された。
ナチス・ドイツは、人種優生思想により劣等人種の絶滅を目ざして、ユダヤ人やスィンティとロマの少数民族も大量殺戮した。1943年初めにアウシュヴィッツ・ビルケナウの強制収容所に、ヨーロッパ約11か国から約23,000人のスィンティとロマを漸次に強制連行した。1944年8月2日に強制収容所に生存していた子どもと母親、高齢者の約4,300人のスィンティとロマが全員ガス室に送られ、一夜のうちに全員が毒殺された。ナチス・ドイツ支配下のヨーロッパ下でホロコーストの戦争犯罪の犠牲になったスィンティとロマの人数は約50万人と推定されている。