広島原子爆弾の熱線を背後から上半身に浴びた男性の被爆者の佐々木忠孝が、1945年10月5日から6日にかけて、爆心地から約1,500mの広島赤十字病院に収容されて火傷の処置を受けた。ガーゼにリバノールを塗るだけの治療だった。火傷の上でガーゼを交換するのは非常に激痛であった。広島赤十字病院は、外観だけが残り、窓は吹き飛ばされ、内部は破壊された。原爆投下の日から、病院には被爆者が殺到した。
被爆者の佐々木忠孝は、広島市中区上八丁堀にあった中国軍管区兵器部に所属していた。8月6日に爆心地から北東約1kmの広島城の近くで被爆して、意識を失って、気がついたときには、広島城の外堀まで吹き飛ばされていた。大火傷を負いながらも、なんとか河川敷に逃げ込んで助かった。8月7日に、トラックで救護所となっていた福屋百貨店に運ばれた。その後に、担架で広島赤十字病院に移送されて入院した。その頃は毎日4から50人が死亡していた。奇跡の生存者がいると紹介されて、映画に撮られた。映画のライトの熱でやけどがピリピリして、その時はこれ以上痛いめに遭わせてくれると偲んだ。原子爆弾の火傷は、驚くほど早くケロイドの瘢痕が増殖した。
旧文部省の「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の記録映画班は、10月1日から医学撮影チームの映画撮影が始まった。戦時災害補償法による医療の打ち切りで、すべての救護所が閉鎖されることになった。しかし、病院や救護所では医療支援が行われており、多くの被爆者が原子爆弾による原爆症を患っていた。撮影スタッフは、過酷な状況に置かれている被爆者の様子に心を痛めながらも、抵抗を乗り越えて多くの映像を撮影した。医療班のフィルムは他のフィルムとは異なり、主に負傷した被爆者に焦点を当てている。日本映画者が製作したフィルムは、GHQに接収されてから1967年になって文部省に返還された。