ソ連8月クーデターが勃発して、1991年8月21日に首都モスクワにて、ロシア国会議事堂の近くで、横転した歩兵戦闘車から22歳のドミトリー・コマールの死体がぶら下がっていた。ボリス・エリツィンの支持者が、ガソリン爆弾で武装して、クレムリンの新強硬派共産主義支配者に忠誠を誓う兵士と衝突して、3人が死亡した。
8月21日午前1時頃にホワイトハウスから近隣で、トロリーバスや道路清掃車を使って、対抗するソ連軍の歩兵戦闘車に対してトンネルをバリケードした。この衝突事件で、ドミトリー・コマール、ウラジミール・ウソフ、イリヤ・クリチェフスキーの3人の男性が死亡して、数名が負傷した。コマールは、22歳のソビエト・アフガン戦争の退役軍人で、移動中の歩兵戦闘車の観測窓に蓋をして撃たれて落下して頭部が粉砕された。経済学者であった37歳のウソフは流れ弾に当たって死亡した。群衆は歩兵戦闘車に火を放ち、28歳の建築家であるクリチェフスキーは、部隊が逃げる際に射殺された。
ソ連軍は、戦車や特殊部隊によりホワイトハウス(国会議事堂)を襲撃して、ホワイトハウス周辺のデモ隊を孤立させ、武装解除するための作戦があった。8月21日真夜中から、ソ連軍の装甲車がモスクワの街を巡回し、新たな外出禁止令を発令した。デモ隊は市内のいくつかの場所で軍と衝突した。ガーデン・リングとノビイ・アルバトの交差点では、デモ隊が装甲車の車列の行く手を阻もうとした。市民は軍に石を投げ、1台の車両を炎上させた。兵士は数発の威嚇射撃を行い、その1発が跳ね返ってきて37歳のウソフを殺害した。燃えた装甲車から逃げた兵士が、頭に銃を撃って28歳のクリチェフスキーを銃殺した。22歳のドミトリー・コマールは装甲車から道路の下に落ちて死亡した。
8月19日の午前9時からロシア・ソ連社会主義共和国(SFSR)のエリツィンらは、国家非常事態委員会(GKChP)を違法なクーデターと糾弾し、エリツィンは戦車の上に立ってホワイトハウスの支持者に呼びかけた。デモ隊は非武装の民兵部隊を結成し、レンガや公園のベンチ、ゴミ箱など、バリケードを築き、軍事攻撃から共和国の指導者を守った。8月21日未明には、武装した警察官候補生もロシアSFS側に加わった。8月20日の夕方には、ホワイトハウスの前に数十万人の多様な人々が集まった。8月21日にソ連軍部隊の司令官たちは、モスクワの環状道路付近で、誰もデモ隊を妨害しなかった。8月21日の朝には、ヤゾフ国防相がソ連軍にモスクワからの撤収を命じて、ヤナエフ副大統領はGKChPを正式に解散させてソ連8月クーデターは終結した。軍事組織でもあった国家保安委員会(KGB)に所属したプーチン大統領が、財閥と癒着し汚職の噂が絶えないエリツィン大統領から1999年末に後継大統領に指名された。