2/14/2022

An American Soldier examines the body of a Russian slave laborer whose head was crushed and killed with a wooden hammer by SS guards of Passau Ⅰ, Subcamp, Bavaria 1945 May 2.

アメリカ軍が1945年5月2日にナチス・ドイツのパッサウⅠ強制収容所分所を開放した。アメリカ軍兵士が、パッサウⅠ分所の近郊のティーフェンバッハで、ナチス・ドイツ親衛隊員により頭部を木槌で潰されたロシア人の強制労働者の死体を検死した。

 パッサウ(Passau)は、ドイツ南東部のバイエルン州の都市である。1892年から1894年まで、アドルフ・ヒトラーと家族はパッサウに住んでいた。パッサウ市は1942年5月から水中発電所の建設を計画した。1942年10月19日にダッハウ強制収容所の分所としてパッサウI分所が設置された。約1ヶ月後にマウトハウゼン強制収容所が分所の管理を引き継いだ。マウトハウゼン・グーゼン強制収容所は解放されるまでに、40以上のサブキャンプが設置された。1945年3月初めには、強制収容所の囚人総数約83,000人のうち、約64,000人がサブキャンプに収容されていた。

 パッサウIは設立の当所は主に政治犯を収容した。ダッハウ強制収容所からパッサウIに移送された約24人の囚人が収容された。1943年にはマウトハウゼン強制収容所から約70~80人の囚人が収容された。主にポーランドから移送され、スペイン、チェコスロバキア、ドイツ、ソ連、オーストリアからの囚人も移送された。1944年9月には、約70人の男性囚人が収容されていた。1945年2月には、約50人の囚人がマウトハウゼン強制収容所に移送された。その他にパッサウⅡ分所とパッサウⅢ分所も設置された。

 大多数の囚人は水中発電所の建設現場で強制労働した。その他は、製材所工場の労働、連合軍による空襲後の清掃作業、不発弾の処理もした。1945年2月に囚人の大半である約50人がマウトハウゼン強制収容所に移送された後に、残存した約20人の囚人は、ドイツ敗戦までプラントの部品組み立てやメンテナンスをした。看守はナチス・ドイツ親衛隊兵士で、約8人から後には約15人となった。パッサウIでは看守による暴力や激しい身体的虐待が頻発して、少なくとも4人の囚人の虐殺が記録されている。パッサウI分所は、アメリカ軍が開放する少し前に、収容所所長によって閉鎖された。1945年5月2日にアメリカ軍は見捨てられた囚人たちを収容所で発見した。