日露戦争の1904年末頃に、旅順攻囲戦において日本軍がロシア軍の塹壕を奪還した。その塹壕の下に縄で身体を拘束されて殺害された日本軍兵士の死体が横たわっていた。ロシア軍の砲台の砲身は破壊されていた。厳寒の中で防寒軍に包まれた日本軍兵士が掃討した。塹壕の中には、厳寒の中で焚き火をする木材の束が散乱していた。
日露戦争は1904年末頃は、第3次旅順攻囲戦に突入した。ロシア軍が要塞化していた203高地の戦いに移行していた。ロシア軍は、強固な防御陣地を構築して、急峻な側面を持つ高台であり、巨大な堡塁と、補強された土塁、鉄筋コンクリート、電化された有刺鉄線で取り囲まれていた。ロシア軍の機関銃と手榴弾によって、突撃した日本軍は9月22日に約2,500人の死傷者を出して撤退した。10月末の突撃では、約3,735人の死傷者を出して撤退した。11月26日の突撃では約4,000人もの死傷者を出して撤退した。日本軍は11月28日から大規模な突撃をして甚大な犠牲を伴って11月30日に一時的に203高地を占領した。反撃したロシア軍は、12月1日に203高地を再奪還した。
203高地の戦闘はその後も続き、非常に激しい肉弾戦が繰り広げられ、山頂の支配権は何度も入れ替わった。12月5日に、大規模な砲撃の後に、日本軍は203高地を制圧しした。ロシア軍は203高地に2度の反撃をするも、いずれも撤退して、203高地は日本軍が占領した。攻城砲による砲撃で砲台に弾丸が爆裂し、そのたびにロシア軍兵士が一緒に跳ね飛ばされた。死傷は累々として堆積し、傷に唸者、静かなる者は絶命せる戦死者の死体であった。
12月18日に日本軍は約150人の戦死と戦傷約699人の犠牲を出して、ロシア軍の東鶏冠山の砲台を占領した。12月28日に日本軍は約237人と戦傷953人の犠牲を出して二龍山の砲台を占領した。12月31日に日本軍は約18人と約169人の戦傷の犠牲を出して松樹山の砲台を占領した。1905年1月1日に、旅順市街のロシア軍司令部から白旗があがり、開城を申し出た。1月2日に水帥営で旅順開城規約の調印が行われた。1904年8月1日~1905年1月2日の旅順攻囲戦により、日本軍は約57,780人の戦死傷、約33,769人の病死を出した。ロシア軍は、約31,306人が戦死傷して、約24,369人が降伏した。海抜203mの203高地に爾霊山の忠魂碑が建立された。