フランス陸軍アフリカ猟歩兵第3大隊所属のアンリ・カミュ少尉(J.J.Henri Camus, 21歳, 1842年 - 1863年)は、程ヶ谷宿に向かうため乗馬で井土ヶ谷村に入った1863年10月14日に、尊皇攘夷派の浪士の3人に襲撃されて斬殺された。カミュは横浜居留地の警備のため上海より呼び寄せられて、来日して間もなかった。先頭に居たカミュは死亡した。同行していた他の2人の同僚のフランス人は逃走して命は無事であった。斬殺されて顔面が血まみれのカミュの死体を、ベッド上で写真を撮影して、フランス本国に井土ヶ谷事件を報告した。カミュの死体は、翌日10月15日にフランス教会のミサをして、横浜山手外国人墓地に埋葬された。
榎の大木が茂み昼間も薄暗い森林に潜んでいた尊王攘夷派の3人の浪人が、カミュを襲撃した。カミュは右腕は切り落とされて、さらに太刀で斬殺されて、その場で即死した。英字新聞のジャンパン・ヘラルド(1863年10月17日付)は、1963年10月14日午後4時ころに居留地から約4.8km離れた井上ヶ谷という村で、一人の外国人の死体が発見されたニュースが各国領事館に通報された。川にかかる橋向こうにアフリカ狙撃兵第三連隊付き少尉のカミュの切り刻まれた残酷な死体が狭い小路に横たわっていた。約20ヵ所にわたる切り傷を伴った。片腕は完全に胴体から切り離されて、手にはまだ手綱の一部が握っていた。切断された腕は、死体から約10歩離断していた。取り調べの幕府の役人は、手かがりは皆無であると宣告した。
井土ヶ谷事件は、江戸時代末期にて1863年10月14日(文久3年9月2日)に、武蔵国久良岐郡井土ヶ谷村字下之前(現在の神奈川県横浜市南区井土ヶ谷下町3付近)で、攘夷派の浪士によるフランス人士官の虐殺テロ事件である。襲撃した尊王攘夷派の3人のテロ襲撃犯は行方不明のままとなり逮捕されなかった。事件翌日に、フランス軍は外国人保護のために、横浜の山手に常時駐留を宣言した。フランスだけでなく、イギリスもアメリカも、不穏な尊王攘夷派の勢力に対して軍事的に威嚇した。フランス公司のド・ベルクールは徳川江戸幕府に対して虐殺されたカミュは軍人であり、フランス本国にて井土ヶ谷事件の謝罪と交渉を求めた。1864年5月にフランス使節団は、フランス政府に井土ヶ谷事件の謝罪と見舞金(3,5000ドル)を支払った。