太平洋戦争の硫黄島の戦いで、日本軍兵士が手榴弾を握りしめたまま自爆して戦死した。日本軍兵士は、手榴弾を体に当てて爆発させて自決した。先の大戦では大勢の日本勢が自決によって絶命した。1941年に東条英機陸相が説いた戦陣訓に、生きて虜囚の辱を受けず、日本軍兵士は忠実に守り、捕虜を拒み、自決を選んだ。
アメリカ軍海兵隊が1945年2月19日に上陸後から激しい戦闘が続いた。2月23日15児20分に、アメリカ軍が多大な死傷者が続出する中で、擂鉢山に星条旗が掲げられた。2月23日夜に、日本軍の摺鉢山守備隊の生き残り300人は、北部の日本軍と合流するため陣地を脱出しようとした。しかし、途中で120人が殺害されて120人が倒された。日本軍本隊の混成第二旅団に合流を確認できたのは25人に過ぎなかった。2月24日には、岩場に身を隠した日本軍兵士に対して、容赦なく火炎放射を浴びせた。
2月23日は、硫黄島の元山飛行場付近では早朝からアメリカ軍と戦闘が始まっていた。摺鉢山の戦闘は終結を告げた。主戦場は元山飛行場に移っていた。アメリカ軍は砲兵八個大隊を含む二個師団の大部隊で、タコ岩ー千鳥集落ー霧島集落ー西集落の線と阿蘇台周辺の日本軍を徹底的に攻撃した。しかし、日本軍の第二旅団を中核とする守備隊は、アメリカ軍歩兵部隊の進撃を辛うじて阻止した。午後3時ごろからになるとアメリカ軍は全線にわたり塹壕を造り始めた。
硫黄島の戦いで、アメリカ軍兵士は約7,000人が戦死して、戦傷者は約22,000人で、約9割れが重態であった。全体で約21,000人の日本軍兵士がいて、そのうち爆死や病死で約17,000人が犠牲となった。戦闘により戦死したのは、その内の約3割の約5,000人であった。残りの約1割は、投降で後方から撃たれ、上官に嫌われ殺害された。約6割は、水が無くて、焦熱地獄で、手榴弾を使って 爆死した自殺であった。全ての日本軍戦死者は約19,000人で、硫黄島には、まだ約12,000体の遺骨が残存した。