太平洋戦争の硫黄島の戦いで、アメリカ軍の砲弾により日本軍兵士は吹き飛ばされて戦死した。日本軍兵士の死体は硫黄島の砂上に放置された。硫黄島の戦場の至るところで日本軍兵士の死体が積み上げられてた。地上戦ではアメリカ軍の激しい砲爆撃によって次々に日本軍兵兵士は倒されて殺害された死体が散乱した。
1945年2月19日に硫黄島に上陸したアメリカ軍は真っ先に摺鉢山の占領を目指した。しかし、地下壕に籠もって頑強な抵抗を続ける日本軍兵士に大いに手を焼き、ついに地下壕の日本軍兵士を焼き殺す作戦に出た。2月21日日早朝まで、アメリカ軍の艦載機の40機は、摺鉢山の日本軍陣地を爆撃した。その後にアメリカ軍は攻撃して侵攻が開始された。正午までに硫黄島の西側の日本軍陣地を奪還した。日本軍の守備隊は、大規模な肉薄する逆襲を仕掛けて、戦線は膠着した。アメリカ軍は一個大隊の増援部隊が到着して攻撃を断行した。午後2時頃までに約500m進撃した。アメリカ軍は夕方までに硫黄島山麓の西側と北側を包囲した。
2月21日夕方には、日本軍の神風特攻機の31機が、八丈島から発進して、空母サラトガ、護衛空母ビスマルク・シーとルンガ・ポイントなどに体当たりした。サラトガでは、約130人のアメリカ海軍兵士が戦死した。ビスマルク・シーでは大火災が起こり、約218人が犠牲しなった。 硫黄島の戦闘中の最後の大規模な特攻攻撃となった。
2月22日には、アメリカ軍は摺鉢山の占拠を目指して、地下壕の日本軍兵士を焼き殺す作戦に出た。洞窟の上から削岩機で孔を開けて、黄燐とガソリンを注入して火炎の攻撃を繰り返した。摺鉢山は夕方までに完全に包囲されて、日本軍の残存兵力は約300人まで減少した。同日の2月22日には、元山飛行場付近でも激戦があった。アメリカ軍は折からの豪雨の中で、午前8時過ぎからロケット砲攻撃を始めて、戦線を拡大した。夜に入って日本軍の残存部隊の約200人が後方に退却して、アメリカ軍と遭遇して、機関銃の集中砲火の中で全滅して玉砕した。元山飛行場に残存した日本軍兵士は爆弾を胸に抱き、戦車群に突入して全滅した。