1945年3月17日に、300機のB29がワイヤー爆弾で神戸を空襲した。東京大空襲に次いで最悪の空襲だった。アメリカ軍の爆撃機のB29から神戸港に焼夷弾が神戸上空から降り注いだ。アメリカ陸軍航空隊のB29がすでにに燃えてい神戸の陸揚げ桟橋とその周辺の建物に投下された。神戸爆撃は、1945年3月17日に、アメリカ空軍B29爆撃機の焼夷弾が、日本の第6の都市に落下した。3月17日りの死者数は2,669人に上った。神戸空襲全体では被害面積はの21%に及び、戦災家屋数14万1,983戸、総戦災者数は罹災者53万858人、死者7,491人、負傷者1万7,002人とされた。
神戸空襲はアメリカ第20陸軍航空隊が、1945年3月16日~17日に日本本土作戦の過程で、軍事・民間目標や人口密集地に対する戦略爆撃の一部であった。神戸は日本で6番目に大きな都市で、約100万人の人口が、主に木造の家屋に住んでいた。神戸は日本最大の港であり、交通とビジネスに重要な都市でもあった。特に混雑したビジネス街には、鉄鋼、機械、ゴム、鉄道設備、兵器などの製造施設があった。神戸は、わずか3つの貯水池の水供給と、消防設備の貧弱さにて、非常に火災が発生しやすい環境にあった。
ダグウェイ実験場に試験が行われた後、米第20陸軍航空部隊第XXI爆撃機司令部のカーチス・E・ルメイ少将は、1945年2月4日、ボーイングB29スーパーフォートレス4発重爆機に、日本の木造・紙製住宅を焼却する焼夷弾の割合を増やすよう命じ、神戸を実験的な絨毯爆撃した。
3月16日、17日、331機のB-29爆撃機が神戸市街を空襲した。空襲は、神戸市の北西の角、主要鉄道線の南側の地域、主要鉄道駅の北西の地域、第3目標の北東の地域という4つの重要な地域を標的とした。その結果、約7.77 km²が焼失し、神戸市の市街地面積約36.25 km²の21%に相当する面積が焼失した。65万人以上が家を失い、さらに100万人の家屋が損壊した。
空襲中に、280機の日本軍戦闘機が目撃され、そのうち96機が128回の攻撃でB29爆撃機と交戦した。空襲で3機のアメリカの爆撃機が失われた。墜落した航空機に搭乗していた2人の飛行士、アルジー・S・オーガナス軍曹とロバート・E・コープランド少尉は生き残り、日本軍に捕らえられた。彼らはその後、神戸と大阪への無差別爆撃の罪で急遽招集された法廷で裁かれ、死刑を宣告され、銃殺刑で処刑された。