沖縄戦にて夜襲して突撃した日本軍兵士が、45口径の拳銃で殺害された。アメリカ軍兵士は日中になって上半身裸で日本軍兵士の死体を見詰めた。
アメリカ軍第六海兵師団は、沖縄本島の小禄半島に6月4日に上陸した。生残した日本軍兵士の頑強な抵抗と困難な地形で、海兵隊の死傷者は約1,608人に及んだ。日本軍兵士の死者も増して、小禄半島南部の小さな袋地に押しこめられた。アメリカ軍は6月13日に、日本軍が保持した小禄地域を掃討し制圧した。
小禄地区では日本海軍沖縄方面根拠地隊(海軍沖方根)とアメリカ軍の死闘激戦が続いた。豊見城地区ではアメリカ軍が高安、高入端付近まで南下した。日本海軍部隊はそれ以上の南進を阻止するため、平良付近に増援部隊を派遣した。アメリカ軍は陣地構築に集中して同方面の戦線の動きは活発ではなかった。小禄地区ではアメリカ軍は軍用機の爆撃の支援の下、戦車約70両、兵員1,000人以上が猛攻して激戦となった。日本海軍部隊は挺身斬込みで応戦した。
日本第32軍はかねてより日本海軍沖方根に南部撤退を命じていた。日本海軍沖方根は6月4日に、小禄、豊見城地区で最後まで戦うとの電報を発した。小禄、豊見城地区で日本海軍沖方根が奮戦することは、アメリカ軍の南進を遅らせた。すでに日本軍の命運は決して、日本第32軍牛島司令官は、日本海軍部隊を南部撤退を再三に渡り南部撤退を呼びかけ、最後は親書を送って撤退を求めるも、南部撤退はかなわなかった。
小禄村には日本海軍小禄飛行場があり、海軍沖方根が駐屯した。多くの住民が避難せず村に留まって、住民が戦闘に巻き込まれた。小禄村の人口約9,723人のうち沖縄戦での戦死者は約2,917人に及んだ。そのうちの約32%となる約920人が小禄村内で死亡した。アメリカ軍は住民が避難する壕を、片っ端から手榴弾やガス弾で攻撃し、沖縄の住民を殺害していった。