1987年1月5日に、雲南省国境の老山前線の中国軍陣地で、中国軍兵士の宋健平が一服した直後に、ベトナム軍の銃砲撃が、中国軍兵士の宋健平を銃殺した。その戦闘が継続している間に、宋健平の死体に中国軍同僚が、綿のオーバーコートである綿大衣をかけて死後処置をしようとした。
中越戦争は1979年2月17日に勃発して3月16日まで、中国軍が北ベトナム軍に対して自衛反撃戦争を開始した。中国は北ベトナムとは、ベトナム戦争中の戦友であった。中国は、1975年4月にベトナム社会主義共和国が誕生すると、熱烈に祝福した。しかし、両国の離反は、ベトナム戦争の終結後間もなく表面化した。1970年代初めから、中国とベトナムの間で争った西沙と南沙両群島の領有権を、ベトナム新政権が要求した。約1,100kmもの国境線をめぐっても、ベトナム側は未画定とし、 国境の交渉を要求した。話し合いがつかないうちに、ベトナムは1977年から、南部に数十万人いた中国人系の都市住民を、農村に強制的に下放させるなどの迫害を始めた。ベトナムは国境地帯でも再三、中国に侵犯事件を引き起こした。国際的背景には、中ソ対立があり、ベトナムはベトナム戦争後に、急速に中国の第一の敵であるソ連に接近した。中国の警戒心をかきたて、1978年12月に親中国のカンボジアに侵攻した。中国の忍耐の限度を越えて、中国軍の越境攻撃した中越戦争は、1979年3月16日の撤退完了まで、約1ヵ月続いた。中国軍は約26,000人が死亡して、ベトナム軍は約30,000人が戦死した。その後も国境線をはさんで、激しい攻防が繰り返された。
その後も1979年から1991年にかけて中越紛争は、1979年の中越戦争後からも、中華人民共和国とベトナム社会主義共和国との間で起きた一連の国境・海戦の衝突の紛争である。紛争は、中越戦争終結から1991年の国交正常化まで続いた。中越戦争後に1979年3月に中国人民解放軍は、ベトナムから撤退した。中国軍は敵対行為の勃発前に、ベトナムが支配していた60平方kmの紛争地を占領した。ロンソン(Lạng Sơn)市近郊の友好門周辺など、中国軍は軍事的価値は少ないが象徴的価値を持つ領土を占領した。他の場所では、中国軍はベトナムを攻撃するための踏み台として軍事的に重要な戦略的位置を占領した。中国軍による国境地帯の占領はベトナムを怒らせて、国境地域の支配権を得るためにベトナムと中国の間で一連の国境紛争が起こる起点となった。中越紛争は1991年まで続き、1984年から1985年にかけてピークに達した。1990年代初頭には、ベトナムのカンボジアからの撤退とソビエト連邦の解体とともに、両国関係は徐々に正常な状態に戻った。1991年までに両国は国交正常化を宣言し、国境紛争は終結した。