南京大虐殺で1937年12月に、後手に縛られた南京市民が日本軍に虐殺された死体が散乱した。
1937年12月16日に、東京朝日新聞の従軍記者の今井正剛は,12月13日に日本軍が占領した。揚子江の関の埠頭である下関は、中華民国の首都南京市の外港の舟つき場で、埠頭一面は、まっ黒く折り重なった死体の山であった。徘徊する50人から100人の人影が、死体をひきずっては, 河の中へ投げこんだ。うめき声, 流れる血, けいれんする手足、静寂に対岸がかすかに見えた。血によって碼頭一面が鈍く光った。作業を終えた苦力たちが河岸に一列にならばされた。機関銃の音で、のけぞり、ひっくりかえり, 踊るように集団は, 河の中へ落ちた。虐殺は、捕虜となった中国軍の兵士と、ふだん着をきた便衣隊が逮捕されて処刑された。
当時に、南京虐殺は日本国民には知らなかった。日本国民は敗戦後の東京裁判で知った。南京大虐殺の証言・証拠が提出された。法廷の速記録から、事実を再現する。人々は,河の堤の上に点呼をうけ、河の堤防の上に男女は整列した。トラックが機関銃をすえて、中国人民にむけ発砲した。惨劇は、約1時間ほどつづいた。機関銃で射殺された人々は1万人あった。
12月20日午後7時ごろ、日本軍兵士は、支那民らの手のひらを検査して、5人は手にタコがあり、銃剣で突き殺した。幕府山に連行されると、多数の支那人の約200体の死体が道路などににころがっていた。多数の小児も銃剣で突きさし殺した。
退却しようとする中国軍および難民男女老幼の合計5万7418人を幕府山付近の村にとじこめ、飲食を断絶された。多くが凍餓し死亡した。1937年12月16日の夜間に生き残った者は鉄線で2人を1つにしばり、4列にならばせ、下関・草鞋峡に追いやられ、機銃で掃射し、銃剣で乱刺し,最後には石油で焼いた。焼却後の残屍は、みな揚子江の中に投げ入れた。