1894年の香港ペストの際に、ケネディ・タウンのガラス工場の中にペストに感染した重篤な香港市民の患者が横たわった。ガラス工場を仮設病院とした施設に収容されたペスト患者である。香港には6軒の避病院(伝染病専門病院)があった。5月14日にケネディタウン病院をケネディ・タウン警察署の臨時病院を開設した。5月21日にケネディタウンにガラス工場病院が設立された。写真はケネディタウン・ホスピタルとは別の病院である。ケネディタウン病院という伝染病専門病院の片隅の小屋で、病理解剖をした。
1894年香港ペストは、第3次ペスト・パンデミックの一部で、香港で大流行したペストである。 ペストは1894年に最も甚大な死者をもたらして、1895年から1929年まで毎年再発し、合計で2万人以上が死亡し、致死率は93%を超えた。香港は、換気、排水、衛生サービスが悪く、過密状態であった。ペストは植民地香港の歴史において大きな転機となり、植民地政府は中国人コミュニティに対する政策を再検討し、中国人の福利に投資することを余儀なくされた。
最も流行が激しかったのは1347~50年で、ヨーロッパの人口の3分の1となる2500万人の生命を奪った。明治政府の命により香港に渡っていた北里柴三郎は、1894年6月14日に長年に亘り人類を苦しめ多くの命を奪ってきたペストの正体を暴いた瞬間だった。ペストが1894年に中国南部で再び発生し、香港でも猛威をふるい始めた。ペスト患者の血液に顕微鏡の視野に、特徴的な細菌が認められた。ペストは、目に見える病原菌へと姿を変えた。コッホの4原則で病原菌の確定を済ませた6月18日に公表された。著名な医学専門誌「The Lancet」の8月11日号に掲載されて、北里柴三郎の成果は世界に知れ渡った。香港で猛威を振るったペストは5年後の1899年ついに神戸に上陸した。北里柴三郎は、1897年に伝染病予防法を成立させた。1899年には開港検疫法にペストが追加された。