7/01/2024

During the siege of Leningrad, about one million three hundred thousand people died, especially young infants who were strangled with food rations in the midst of hunger and bitter cold. Mothers, residents of Leningrad, slumped over beside their corpses, mourning and wailing.

 第二次世界大戦の東部戦線にて、ドイツ軍による約900日間にわたるレニングラード包囲戦で、100万3000人が死亡した。飢えと厳寒の中で、レニングラードの幼弱な幼児は死亡した。母親は、その死体の側で、ロシア人の母親が、嘆き悲しんで、慟哭した。特に子供、高齢者、失業者は、食料の配給を絞られた。

 1941年9月8日から1944年1月27日の872日間にわたりレニングラードはドイツ軍に包囲された。極限状態に陥ったレニングラードは、廃墟の中、爆発する爆弾の中、大砲の砲撃の中てぜ、寒さと飢えに毎日さらされながら、住民は必死に生きていた。生死が一切れのパンよりもありふれた。死体が無蓋のままソリに乗せられて引きずられた。絶対に必要でないものはすべて消滅した。戦前は当たり前であった熱い炊飯器の食事、燃え盛る明かり、開いた窓さえも、突然に、消え去った。絶えず電気、水道、暖房の問題が発生して、住民はあらゆる物を食べて文字通り生き延びた。暖をとるために本や家具を燃やし、凍ったネヴァ川の氷の中で水浴びをして、壁紙の糊でスープを作った。

 レニングラードの封鎖は900日間にも及び、コムソモリスカヤ・プラウダの写真家と記者であったボリス・クドヤロフは、900日間にわたり、レニングラードの市民とともに生き、苦しみ、戦った。包囲された街の近くでの戦闘や、通り、工場、学校、アパートでの日常生活を撮影した。開戦初日にモスクワからレニングラードへ送られた。空の旅が中断され、ヴォログダ経由の列車とラドガ湖周辺の迂回路で移動した。その時、レニングラードは警戒態勢にあり、ドイツ軍の進攻を待ち構えた。レニングラード包囲戦と防衛戦、家族、女性、子供たちの苦しみを撮影したソ連のユダヤ人であるクドヤロフは、3000枚もの写真を撮影した。

 1941年は最悪の年で、何百万人もの難民がバルト三国から逃れて、レニングラードに押し寄せた。ドイツ軍はレニングラードを封鎖して、食料と弾薬の唯一の補給路はラドガ湖の向こう側に続いた。ラドガ湖を横断する補給路は、命の道(ドロガ・ズィズネ)と呼称された。夏は水の上を、冬は氷の上を通った。一日のパンの配給量は、一人当たり85グラム強に設定された。