第二次世界大戦の東部戦線にて、ドイツ軍による約900日間にわたるレニングラード包囲戦で、100万3000人が死亡した。飢えと厳寒の中で、レニングラードの幼弱な幼児は死亡した。母親は、その死体の側で、ロシア人の母親が、嘆き悲しんで、慟哭した。特に子供、高齢者、失業者は、食料の配給を絞られた。
1941年9月8日から1944年1月27日の872日間にわたりレニングラードはドイツ軍に包囲された。極限状態に陥ったレニングラードは、廃墟の中、爆発する爆弾の中、大砲の砲撃の中てぜ、寒さと飢えに毎日さらされながら、住民は必死に生きていた。生死が一切れのパンよりもありふれた。死体が無蓋のままソリに乗せられて引きずられた。絶対に必要でないものはすべて消滅した。戦前は当たり前であった熱い炊飯器の食事、燃え盛る明かり、開いた窓さえも、突然に、消え去った。絶えず電気、水道、暖房の問題が発生して、住民はあらゆる物を食べて文字通り生き延びた。暖をとるために本や家具を燃やし、凍ったネヴァ川の氷の中で水浴びをして、壁紙の糊でスープを作った。
レニングラードの封鎖は900日間にも及び、コムソモリスカヤ・プラウダの写真家と記者であったボリス・クドヤロフは、900日間にわたり、レニングラードの市民とともに生き、苦しみ、戦った。包囲された街の近くでの戦闘や、通り、工場、学校、アパートでの日常生活を撮影した。開戦初日にモスクワからレニングラードへ送られた。空の旅が中断され、ヴォログダ経由の列車とラドガ湖周辺の迂回路で移動した。その時、レニングラードは警戒態勢にあり、ドイツ軍の進攻を待ち構えた。レニングラード包囲戦と防衛戦、家族、女性、子供たちの苦しみを撮影したソ連のユダヤ人であるクドヤロフは、3000枚もの写真を撮影した。
1941年は最悪の年で、何百万人もの難民がバルト三国から逃れて、レニングラードに押し寄せた。ドイツ軍はレニングラードを封鎖して、食料と弾薬の唯一の補給路はラドガ湖の向こう側に続いた。ラドガ湖を横断する補給路は、命の道(ドロガ・ズィズネ)と呼称された。夏は水の上を、冬は氷の上を通った。一日のパンの配給量は、一人当たり85グラム強に設定された。