1921年の中国北部の深刻な干ばつによって、数万人の子供が餓死した。農民の子供たちが、道端で餓死して、死体が散乱した。村や町の人影もまばらで、朽ち果てた状態の家屋が立ち並んでいた。飢饉から逃れてきた難民は最低限の生活を維持することもできず、逃げ回った。高齢者、病人、障害者、子供たちの生命はさらに不安定となった。統計によると、1921年5月中旬までに12,377人の子供が餓死した。人身売買された人の数は約5,057人であった。その料金は安く、子供1人につき最低1元から最高50元であった。
1921年5月中旬までに、張作霖による中国東北部3省を統合して豊かにする政策を是正する武装政策の結果として、子供たちらが餓死した。1921年5月19日付の『宣言』によると、1921年の春以降に、干ばつが続いた結果、中国北部の飢饉が深刻化した。唐山、内連など5県の飢饉は特に深刻となり、子供が1元で人身売買された。どこに行っても、行く先々で木の樹皮を剥がされて、きれいに食べられた。途中で餓死した者は、誰も埋葬されなかった。死体は荒野にさらされていた。野原では、収穫物は枯れ果て、緑の跡形もなかった。
1920年から華北地方で発生した干ばつにより、被災者約2000万人、犠牲者約50万人の華北大飢饉が勃発した。広大な地域の農村が大飢饉に陥った。中国が政治的に統一されず、地方に軍事政権が介在していた。北京政府内部では、1920年7月14日から7月19日に大飢饉の被災地を舞台として、直皖戦争が勃発した。他方で広東軍政府も分裂していた。中国の北京政府の主導権を巡って、華北地方で安徽派の段祺瑞と直隷派の曹錕が戦った。直皖戦争で安徽派は大敗して、段祺瑞の政権は崩壊した。直隷派(曹錕)と奉天派(張作霖)が、結局政権の主導権で内部対立して、1922年4月の第一次奉直戦争で、直隷派が奉天派を破って直隷派の単独政権を樹立した。1924年9月15日の第二次奉直戦争で、張作霖は北洋政府を掌握した。1928年6月4日に、日本の関東軍が満州を支配するために張作霖爆破事件で暗殺した。