北朝鮮の共産ゲリラは、麗水・順天事件で装備と警備力の弱い警察官署をねらって襲撃した。火力の弱い警察官の犠牲も甚大であった。麗水・順天事件の当時の警察署員が殺害されて無惨なる死体が散乱した。全羅南道は麗水・順天事件で民間人犠牲者は1万1131人と推定した。
麗水・順天事件は、韓国政府が1945年9月6日に樹立された。1948年10月に、麗水や順天に駐留した部隊の一部が、済州島の4.3事件の弾圧に派遣する李承晩政権の出兵命令を拒否して反乱が勃発した。済州に出動する命令を受けた麗水第14連隊が、同胞虐殺はできないと拒否した。韓国では、1995年から麗水・順天事件を公式名称として使用した
麗水・順天地域にて1948年10月19日夜に、国防警備隊14連隊内の南労党細胞組織の約40人が兵器庫を占拠した。ラッパを吹いて全隊員約2000名を整列させて反乱決起を促した。国防警備隊内にいた北朝鮮シンパの多数が歓呼して応じた。反乱に反対した者をその場で射殺した。そのために反乱軍の全部隊が反乱に同調した。反乱軍は直ちに車輌に分乗して、麗水邑の麗水警察署、麗水郡庁などを占拠して、約100人の警察官、約500人の民間人を殺害した。暴動を鎮める警察官、公務員、地主らは捕らえて処刑された。警察署に収監されていた政治犯を解放して、彼らの案内でその町から警察官の他、李承晩派の韓民党員、右翼団員などを次々に捜し出し射殺した。数日間のうちに、警察官は約100人、李承晩派の市民らは約500人が、反乱軍に殺害された。
1週間後に韓国軍は反乱軍鎮圧して、その過程で439人から2000人の民間人を殺害した。李承晩を大統領と認めない将校を弾圧して、1948年には18人の将校と1,693人の下士官、1949年には224人の将校と2,440人の下士官が兵役を打ち切られた。李承晩政権は、1948年12月1日国家保安法を制定し、社会全体を弾圧した。