太平洋戦争の硫黄島の戦いで、1945年2月26日にアメリカ軍兵士が、元山飛行場の周辺で爆破された銃座の回りに折り重なって死んだ日本軍兵士を見下ろした。2月24日から、元山飛行場をめぐってアメリカ軍と日本軍は西地区と南地区で終日激しい戦闘が行われた。2月25日9時過ぎから、2月24日に上陸したばかりのアメリカ軍が元山飛行場の完全制圧を目指して攻撃を開始した。
アメリカ軍は、2月25日にはアメリカ軍は元山飛行場滑走路に達し、一気に飛行場周辺を攻略するM4シャーマン中戦車は、海兵隊員の支援のなく、日本軍の歩兵第3大隊はあらゆる砲火を集中させた。陸軍の野砲や速射砲などの集中砲撃を浴びせられて、たちまち3輌が撃破炎上した。侵攻を続けるM4シャーマン中戦車に対して、日本軍兵士第3大隊が爆雷を抱いて戦車に肉薄攻撃をした。日本軍兵士の肉薄攻撃でM4シャーマン中戦車は頓挫した。他のアメリカ軍の戦車が肉弾攻撃ほする日本軍兵士に砲撃を浴びせた。日本軍兵士は他の戦車にも肉薄攻撃を行って、2月25日だけで9輌のM4シャーマン中戦車は撃破された。
しかし、日本軍の第3大隊の戦力消耗も激しく、アメリカ軍は2月26日には元山飛行場とその周辺に戦車を伴った約1個大隊の海兵隊で侵攻した。日本軍の陸海軍混成部隊は、さらに3輌のM4シャーマン中戦車を撃破した。日本軍は優先敢闘したものの、2月26日の夕方までには元山飛行場の殆どはアメリカ軍に占領された。日本軍の守備隊主力である歩兵第145連隊第3大隊の生存者は、大隊長以下たった50人となった。2月27日には、歩兵第145連隊第3大隊は撤退を命じられた。その抜群の功績に対して感状を授与し、その活躍は昭和天皇の上聞に達した。アメリカ軍は元山周辺の戦闘で、33輌のM4シャーマン中戦車を喪失した。