アメリカ軍の第1ネブラスカ義勇軍により、カロオカンで戦死したフィリピン軍兵士の死体が散乱した。1899年2月4日に、マニラ近郊でネブラスカ歩兵第1連隊のパトロール隊が、遭遇したフィリピン軍に発砲して、フィリピン・アメリカ(比米)戦争の最初の戦闘が始まり、一日中アメリカ軍とフィリピン軍は銃撃戦を繰り広げた。翌日、アメリカ軍は攻勢に転じ、フィリピン軍の陣地を襲撃して占領した。アメリカ陸軍省の年次報告書には、カロオカンの戦いにてアメリカ人死者5人、負傷者45人、フィリピン人死者200人、負傷者800人と記された。
アメリカ軍は、マニラの北17kmにある重要な鉄道の中心地であるカロオカンに向かった。2月10日のカロオカンの攻略で、フィリピン軍は一歩一歩頑強に抵抗したが、アメリカ軍は銃剣を突きつけて反乱軍を追い出した。カロオカン街を放棄したフィリピン人は、町の主要部分を燃やそうと、小さな家々は炎の塊と化した。教会や市庁舎に対しては、アメリカ軍がフィリピン軍による炎上を妨害し、多くの反乱軍が捕まって捕虜となった。アメリカ軍の総進撃は午後1時に始まった。時半、市庁舎の旗頭からオールド・グローリーがそよ風に向かって振り下ろされ、カロオカンにおける反乱軍の支配は終焉した。戦火の煙が晴れると、町の住民は家が灰になり、建物は取り壊され、カサ・トリブナ、教会、修道院だけが残った。カロオカンには1万7千人の住民は、第20カンザス義勇軍が席巻して、カロオカンに現存する先住民は一人もいない。4日夜に最初の戦いがあったメイパジャ村に5千人の住民は、石一つ残っていない。
2月22日に、フィリピン軍がマニラのアメリカ軍陣地への攻撃を開始した。2日間の戦闘の後に撤退した。その後に、戦闘中にアメリカ軍がフィリピン軍捕虜を即刻に死刑を執行るなどの残虐行為の疑惑が残った。上院フィリピン委員会が調査されたが、アメリカ軍にそれ以上の問題を追及しないことを選択した。