1932年3月1日に、上海に侵攻した日本軍第9師団歩兵の第6旅団歩兵第7飛行隊長だった林大八大佐が、第一次上海事変の呼称である一・二八事件の戦闘で中国軍に殺害されて戦死した。日本軍兵士は林大八大佐の死体を担架に乗せた。上海の江湾で国民革命軍十九路軍に殺害された日本軍の林大佐の死体は、日本軍の衛生部隊に回収された。林大八大佐は死後に少将に昇進して、対中国戦で戦死した最初の日本軍将兵となった。
林大八は、1914年に中国東北部に来て、1918年9月に関東総督府陸軍部に着任した。1924年に林大八中佐は、日本軍から吉林軍総督府顧問として奉天軍閥に派遣された。1930年、林大八は、満州事変である九・一八事件の犯人の板垣正二郎らの画策に参加した。満州事変で板垣らと行動を共にした功もなく、1931年5月31日に帰国し、第一師団司令部に転属した。1931年8月1日に林は大佐に昇進し、日本陸軍第9師団歩兵第6旅団歩兵第7群隊長となり、1932年初頭の一・二八事件と呼称される第一次上海事変の後に、第9師団は援軍として上海戦線に投入された。九・一八事件を見逃した林大八は、一・二八事件で戦果をあげるため、傲慢に戦死するまで前線に突進し続けた。
1932年3月1日に、日本軍第9師団は3月3日の国際連盟会議を直前に戦局を収拾して、増援に来た第11師団の上陸に備えるために、第3次総攻撃を開始した。林大八が率いる歩兵第7中隊は左翼中隊として、午前11時に、戦車を先陣に江湾鎮方面へ奇襲攻撃を開始して、攻撃方向は舞湾寨と陸家寨の線上を攻撃した。3月1日午前6時30分に、中国軍陣地の左翼前方にいた日本海軍航空隊は航空攻撃を行った。午前8時30分に、日本軍の砲兵部隊は中国軍陣地の左翼前方を重点的に砲撃した。午前11時に、日本軍の砲兵が集中砲撃を停止した後に、2個中隊が左翼の攻撃に参加した。日本軍第9師団長の上田謙吉は午前9時に、自ら江湾競馬場の時計台に登り、戦場を一望した。
1932年3月1日に日本軍は猛烈な空襲と砲撃を攻撃方向に行ったが、陣地を守る中国軍を圧倒できなかった。上田謙吉の見張り役のすぐ下で、副隊長であった林大八は攻撃開始と同時に戦死した。日本軍の内部文書では、3月1日午前11時に攻撃が開始された後、林大八が部隊を率いて左翼正面の中国軍陣地を攻撃して、中国軍の毅然とした抵抗に遭った。午前11時25分に銃弾が林大八の腹部に貫通傷を負わせた。午前11時25分、銃弾が林大八の腹部に貫通した傷を負わせた。地面に倒れながらも、林大八は日本国旗、前進と叫んだ。その後、林大八は意識不明のまま避難し、1932年3月1日午後13時に、後方の陣地で死亡した。林大八は、日本の中国侵略以来、少将に昇進した最初の日本軍将官となり、14年間の対日戦争で中国軍兵士と民間人に殺害された最初の日本軍将官となった。