朝鮮戦争にて全州の虐殺現場で1950年9月26日、27日の両日、北朝鮮人民軍により殺害された死体を住民らが9月29日に回収した。
全羅北道全州市鎭北洞に位置していた全州刑務所には、朝鮮戦争が1950年6月25日に勃発時には、4・3事件、旅順事件関係者など、左翼思想犯が多く収容された。彼らは1950年7月初旬から中旬までに、韓国軍兵士たちに連行された後に、墓地などで集団射殺された。犠牲者の規模は1,400人余りと推定され、加害者は韓国陸軍7師団3連隊所属の兵士たちであった。受刑者たちは全州刑務所近くの墓地があるソリゲジェ、黄芳山などに連行され虐殺された。大虐殺が終わった直後に、7月20日に、全州刑務所の職員はすべて大邱に撤退した。
その直後に、北朝鮮人民軍が全州を占領した。北朝鮮人民軍は空っぽの全州刑務所に、右翼関係者を監禁した。第1期真実和解委員会報告書(2009年)によると、「1950年9月26日、27日の両日、全州刑務所で北朝鮮人民軍102警備連隊、全州刑務所長以下看守、内務書院、地方左翼によって、「反動分子」と規定された右翼人物が1,000人以上が虐殺されて犠牲になった。同じ時期に全州所在の長老教神学病院(現全州イエス病院)近くの採石場、完州郡守公邸の中庭防空壕、カトリック教会前の防空壕などで約60人ほどが虐殺されて犠牲になった」とされた。大虐殺の翌日の7月28日、北朝鮮人民軍は全州刑務所を全焼させて、死体を放置したまま撤退した。
約3月足らずの短い期間に、全州刑務所に監禁されていた民間人2,400人余りが韓国軍と北朝鮮人民軍によって次々と虐殺の犠牲になった。韓国軍による虐殺は、集団銃殺後に埋葬する方式であった。北朝鮮人民軍による虐殺は、全州刑務所周辺でつるはし、シャベルなどで殴打して虐殺した。死体は175体を除いて、遺族が死体を引き取った。回収できなかった死体の175体は、黄芳山虐殺現場すぐ近くの黄芳山愛国支社墓地に安置された。
1950年10月1日に、国連軍が全州が占領して、全州刑務所の職員が復帰した。全州刑務所は焼け野原となり、悲惨に殺害された数百体の死体が散乱した。全州の民間人集団犠牲事件は、北朝鮮人民軍が、全州から撤退する直前の1950年9月26~27日の間に集中的に勃発した。