1946年8月28日にヒンドゥー教徒とシーク教徒が多く住むカルカッタ南部のボワニポールでカルカッタ暴動が起きた。特にイスラム教徒の犠牲者が多かった。その死体が十字路に横たわり、死体に鳥が群がった。死体は何日間も路上に放置されて、その周りに命が流れ出て喪失した。地域の住民の人々の生活は継続していた。
1946年8月16日にインドでカルカッタ暴動が勃発して、直接行動の日と呼称された。ムスリム連盟のムハンマド・アリー・ジンナーは、ムスリムのイスラム教徒による全国的な抗議行動を呼びかけた。1946年にインド指導部への権力移譲を計画する内閣訪印団は、中央、州グループ、州別という3層構造を提案した。その構造では、州グループにムスリム連盟のムスリム多数派地域における独立国家の要求を受け入れた。ジンナーと同僚たちは、インド国民議会派がこの計画に不誠実と疑って、1946年7月にムスリム連盟は計画への同意を撤回した。ジンナーは8月16日にゼネストを呼びかけて、インドのイスラム教徒に独立した祖国を求める要求を押し通した。大規模な暴動はカルカッタのみで、72時間以内に約4,000人以上が死亡し、約10万人の住民が家を失った。8月17日の日中に、最悪の虐殺が行われた。ヨーロッパ人が攻撃されず無傷であった。
カルカッタをはじめとする当時の未分割ベンガル地方で大規模な共同体の暴動が発生した。それからインドはわずか約11週間で分割されて、ヒンドゥー教徒が多数を占めるインドとイスラム教徒が多数を占める東西のパキスタンの独立国家が誕生した。何百万人ものイスラム教徒が西パキスタンと東パキスタン(現在バングラデシュ)に移住した。何百万人ものヒンズー教徒とシーク教徒がインドの新しい国境を越えて移動して、史上最大規模の集団移住となった。