1941年から1942年の厳寒の冬期に、ソ連の首都モスクワ近郊にて、ソ連の果てしなく続く雪原に、凍りついて凍死したドイツ軍の歩兵たちがいた。寒さで死んだドイツ軍兵士たちは、モスクワ侵攻した12万人のドイツ軍兵士のうち、かなりの割合を占めていた。ドイツ国防軍は、目の前に広がる残酷な冬に対する準備不足、服装不足、栄養不足の状態で侵攻させられた。。
1941年9月30日から勃発したモスクワの戦いでは、10月7日には最初の雪が降り、すぐに溶けて道路や空き地が泥沼と化した。ドイツ軍の装甲集団は大きく減速し、ソ連軍は後退して再編成できた。ドイツ中央軍集団にはもはやソ連軍に対抗する予備兵力はなかった。連鎖する血なまぐさい戦闘で、最大約400km後退させられた。ドイツ戦線は1942年4月になって戦線が復元した。
12月2日にドイツ国防軍は、首都モスクワのクレムリンから約30kmに最も接近して侵攻した。1941年12月上旬から、ロシアでは比較的温暖であった気温が零下20~50度まで下がった。防寒着を持たなかったドイツ軍兵士と、ドイツ軍車両を凍結させた。ドイツ兵の凍傷の症例は13万件以上となった。装填された砲弾は凍ったグリースを取り除き、車両は使用前に何時間も暖房した。1941年12月5日に、ソ連軍の反攻作戦がカリーニン戦線で開始された。12月5日には、枢軸軍のモスクワ攻勢は止まり、ドイツ国防軍の侵攻は停止した。12月8日、ヒトラーはドイツ国防軍に全戦線で防御態勢を命じた。
1942年1月7日に、ドイツ国防軍は初めて大敗北を喫して、モスクワから約100~250km撤退した。その時点で疲弊と消耗したソ連軍は攻勢を一時的に停止した。1941年9月30日から1942年1月7日までの死傷者総数は、ドイツ国防軍が248,000人から400,000人、ソ連赤軍が650,000人から1,280,000人と推定された。