1925年8月20日に、中国の民主主義の革命家である廖仲凱が、広州で国民党右派に暗殺された。1921年4月に孫文は広東革命政府を樹立し、廖仲凱は財政副大臣に任命した。1924年に国民党が改造された後に、孫文によって中央実行委員会の常務委員に選出された。労働者部と農民部の部長、黄埔仕官学校の国民党代表、広東省の省主席、財政長官、軍需総監などを歴任していた。蒋介石は廖仲凱の暗殺に乗じて、広東国民政府の軍事的、政治的権力を掌握した。中央党本部の正門を警備していた警官もなく、暗殺犯は跡形もなく逃げ去った。暗殺された廖仲凱が死亡後に、病院に搬送されて入院した時点である。1925年8月20日、48歳の廖仲凱と32歳の陳秋林は、中央党本部に会議に行く途中に、廖仲凱は車から降りたとたんに顔面を撃たれて死亡した。厳重な警備が敷かれた国民党中央党本部の前で暗殺された。
廖仲凱の暗殺事件の後に、国民党中央執行委員会と国民党政府軍事委員会は、暗殺事件を調査する特別委員会を組織することを決定した。特別委員会に招聘された蒋介石は、王景偉、徐重志らと、政治と軍事から警察の権限を掌握した。蒋介石は広州駐屯地の司令官に任命された。調査の結果、胡漢民と徐崇芝らが、この廖仲凱夫妻の暗殺事件に関与していると容疑されて、広東省を追われた。
暗殺(assassination)は,殺人とは区別され適用の範囲が限定される。政治的要人を,政治的目的のために,非合法的手段で殺害することが暗殺とされる。暗殺は,主体によって,権力者側が広義の政敵を殺害する場合と,反権力・反体制派が,権力者を殺害する場合とに大別される。政敵であった国民党左派の理論家である廖仲凱は、1925年8月20日に国民党内右派に銃殺されて、権力側の蒋介石が後継者とされた。それ以前にも、国民党の要人である陳其美が、1916年5月18日にフランス租界の山田純三郎宅で、袁世凱政権の刺客により暗殺されて、権力側の蒋介石が後継者とされた。