1994年7月に、アフリカのザイールのゴマで、ルワンダ大虐殺により難民となったフツ族が、致命的なコレアの伝染病に襲われた。フランス軍のブルドーザーが、コレラの伝染病により死亡した死体を、集団埋葬するために集めた。難民キャンプには、深刻なコレラの伝染病がまん延した。コレラ犠牲者の死体の多くは、アフリカの暑い太陽の下で露出して腐り、荒れ果てた火山荒野に積み重なった。他にも膨れ上がった死体が散乱して、世界史上最悪の疫病を必死で食い止めた。唯一の救援は集団墓地の掘削だけで、危機が終末的な範囲を示した。推定約120万人の難民がザイール国境を越えて流れ込んだ。
1994年4月7日から7月15日に勃発したルワンダ大虐殺(ルワンダでツチ族に対するジェノサイドとも呼ばれる)では、アフリカ中東部に位置するルワンダの多数派フツ族が、少数派ツチ族を中心に80万人もの人々を殺害した。首都キガリでフツ民族主義者によって勃発した大量虐殺は、衝撃的なスピードと残虐さでルワンダ全土に広がった。一般市民は地元の役人やフツ勢力政府によって、隣人に対して武器を取るよう扇動された。ツチ主導のルワンダ愛国戦線が7月初旬の軍事攻勢によってルワンダを掌握するまでに、数十万人のルワンダ人が死亡し、約200万人の主にフツ族の難民がルワンダを逃れ、本格的な人道危機の事態が悪化した。ジェノサイドに協力し支援したのはルワンダ市民ぶあった。多くのツチ族や穏健なフツ族が、反ツチ感情に燃える隣人たちにより引き渡され、殺害された。難民のほとんどが新たに力を得たツチ反乱政府の報復を恐れたフツ族が、近隣のブルンジ、タンザニア、ウガンダ、旧ザイールの病気だらけの難民キャンプに詰め込まれた。
1994年7月に、アフリカのザイール東部のゴマに住む約100万人近いルワンダ難民の間に、最悪の伝染病のコレラが流行した。国連難民高等弁務官事務所は、伝染病の流行で約12,000人近くが死亡したと推定した。バングラデシュ国際下痢症研究センターは、医療チームをゴマに派遣した。約2週間の滞在中に、ユニセフとザイール保健省と協力し、疫学的評価を行い、臨時治療センターを運営して、他の保健員にコレラと赤痢症の管理の技術的支援を行った。流行の原因の病原体と薬剤感受性を特定するため、ゴマに微生物学研究所を設置した。医療チームは、5つのキャンプ地のうち2つのキャンプ地にある多くの仮設治療施設を訪れ、医療提供者に技術的助言を行った。推定20万人の難民が流行の影響を受けたゴマ市の治療施設も訪問した。治療センターでもコレラによる死亡者は予想をはるかに上回った。
治療センターでの全体の症例致死率は15%近くあった。研究所の調査により、初期の流行はテトラサイクリンとドキシサイクリンの抗生剤に耐性を持つコレラ菌と判明した。8月第1週までにコレラ患者数は減少したが、赤痢患者数は急速に増加した。主に赤痢菌1型が原因であり、赤痢菌はメシリナムを除くほとんどの赤痢治療薬に耐性であった。不適切な水分補給療法や保健員の経験不足もあり、死亡を防ぐことはできなかった。医療チームは、症例致死率が最も高い(14.5%)ゴマ市のカティンド臨時治療センターの運営を引き継ぎ、致死率を1%未満に下げた。