10/31/2022

The body of the hanged Unterscharführer Leo Lamour (1906-1945) on Leonrodplatz in Eichstätt. The inscription on the plaque reads: "He who fights may die. Whoever betrays his fatherland must die. We had to die."

 ドイツのバイエルン州のアイヒシュテットにて、レオ・ラムール(Leo Lamour)親衛隊上級大将 (1906-1945)はレオンロッド広場にて、裏切りの見せしめとして公開の絞首刑で吊るされた。死体のプラカードには、「戦う者は死ぬかもしれない。祖国を裏切る者は死ななければならない。私たちは死ぬべきだった。」と記載された。ザールブリュッケンで生まれたラムールは、1943年に兵役に徴兵された。1945年4月にラムールは、アメリカ軍が接近したアイヒシュテットにいた。彼は砲弾を川に投げ込み、戦車から離れた。彼はアイヒシュテットの居住者であるヴァレンティン・クリーグルと共に、他の親衛隊員が準備していた市内の橋の爆破を阻止した。ラムールとクリーグルは親衛隊のパトロールに逮捕された。1945年4月25日に、アイヒシュタット町の広場で軍法会議により絞首刑に処刑された。

 ナチス・ドイツ軍のフェルディナント・シェルナー(Ferdinand Schörner)は、1945年1月に中央軍集団の陸軍元帥に就任して、ベルリン南東部〜プラハ周辺を防衛した。シェルナー軍集団はベルリン陥落後も最後まで頑強に連合軍に抵抗した。シェルナーは部下に異常に厳しく、脱走兵や臆病者を一切容赦なしに絞首刑にした。シェルナーは仮病を使うドイツ軍兵士や、臆病風に吹かれた兵士には、即決裁判さえ行わず道ばたで絞首刑にした。3月末にナイセの町では、死刑判決をドイツ軍兵士に読み上げて、約22回も公開の絞首刑が執行された。 

 東部戦線でソ連赤軍との戦闘が、2月14日から5月6日まで約83日間にわたり、恐怖に取り憑かれた軍隊兵士と市民は、ベルリン陥落後まで赤軍との自殺的な戦闘を続けた。戦闘は過酷を極めて、独ソ両軍は配下の兵士に非情な恐怖の戒律を課した。ナチス・ドイツの総統官邸では、軍法会議、即決裁判が呪文のごとく繰り返した。無能で臆病な将官どもを迅速に処刑する手続きが簡略化された。ヒトラーは、退却阻止隊の創設を命じた。ソ連赤軍のスターリンの国防人民委員命令(第二二七号)を模倣した。3月9日には、ヒトラー総統命令で、移動即決軍法会議(Fliegende Standgericht)が創設された。裏切り者と臆病者が疑われる軍人から市民に至るまで例外なく処刑された。3月9日から終戦まで、移動即決軍法会議で、約25,000人のドイツ軍兵士がが処刑されたとソ連赤軍は報告した。1945年5月18日に、私服姿でオーストリアのアメリカ軍に降伏した。引き渡されたソビエト最高裁判所の軍事委員会に、1952年2月に25年の懲役刑を裁定された。1954年12月に東ドイツに引き渡されて1958年釈放され、西ドイツで逮捕され、1959年から1964年まで懲役して、1973年に死亡した。