広島市南部の宇品から北東約1.5kmの仁保町丹那町に、教育船舶兵団司令部の暁第6167部隊があった。陸軍船舶司令部における兵団軍医部の医務関係の司令部であった。多数の重篤な被爆者が次々に入所して、一部には夏期の蚊帳の中で療養していた。被爆して日数が重なるのに従って、被爆者の収容人数は急増して、さらに原爆症での死亡者数が増大した。広島市周辺部の被災を免れた救護所は、どこも被爆者で溢れた。
暁部隊と通称された陸軍船舶司令部の建物は全てが救護所になった。広島市内で新型爆弾の炸裂が、中国地方の各暁部隊に伝達された。訓練を一時中止し、大発や小発の上陸用舟艇に分乗して、1945年8月6日正午過ぎから広島市南部の宇品港に上陸した。午後2時頃には宇品の船舶司令部には、約1,300人の被爆者が収容された。広島原子爆弾で悲惨な犠牲を伴った広島市内で、一番先に被爆者の救済と救助に奔走したのは、陸軍船舶司令部で補給を任務とする宇品の暁部隊であった。
アメリカ軍からの空襲に備えていた広島市内の約100ヶ所以上の救護所は、広島原子爆弾が炸裂して、爆心地から約2km以内は壊滅した。被爆者は、近場の大きな建物や学校跡などを目指して、その周辺の地域が救護所の役割を果たした。しかし、そこには医療も枯渇して、火災、建物の崩壊、放射線などの黒雨でどしゃぶりになった。
広島市南部の宇品にあった暁部隊と通称された陸軍船舶司令部は、海上輸送など海運にかかわる陸軍の部隊であり、総兵士数は30万人にも及ぶ大きな組織であった。宇品港は、錨地から海岸までの距離が近く、軍事目的の秘匿が容易となり、軍事的的な条件を整備して、各地から収集した兵隊や物資を戦場に運搬する湾口となった。
太平洋戦争は、日本軍が1941年12月8日未明にアメリカの真珠湾攻撃を突発して、約3年8カ月にわたり勃発した。1942年7月に陸軍運輸部は廃止されて、船舶輸送司令部は軍司令部と同格の船舶司令部に格上げされた。司令部は、広島市宇品の旧陸軍運輸部本部(凱旋館内)に設置された。陸軍船舶隊は、通称で暁部隊と呼称されて、各専門部隊が構成された。陸軍船舶司令部の部隊は、秘密保持のために、教育船舶兵団司令部は暁6167部隊とと呼称された。