浙江大学の学生会会長の23歳の于子三(Yu Zisan)が、浙江省治安司令部にて1947年10月29日に虐殺された死体が拘置所に安置された。学生死亡事件である于子三事件は、国民党政府が長江デルタ地域の学生運動を組織的に弾圧した一連の虐殺事件であった。犠牲者の于子三は、浙江大学農学院農学部の4年生であった。国民党政府に秘密裏に逮捕されて、獄中死した。逮捕される前に、于子三は浙江大学学生会会長を務めて、新民主青年会華家池支部と新潮会の学生会の活動、浙江学生会と全国学生連合会の連携も担当した。
于子三は10月25日に同窓生の結婚式に出席するために杭州に入り大同ホテルに一泊した。10月26日午前2時に、国民党中央委員会浙江部は数名の工作員を送って、彼の他に3人の学生とともに密かに逮捕した。浙江省保安司令部の刑務所に強制連行した。国民政府支配地区の学生運動を壊滅させる目的で、中国共産党地下組織の手がかりを得るために、厳しい拷問を受けた。10月29日午後6時頃に、于子三は獄中で虐殺されて息を引き取った。国民党側は、杭州市を封鎖して、事件の拡大を阻止した。他方、共産党側は于子三事件を最大限利用して、学生運動を拡大した。
于子三が虐殺された死後に、国民党政府は于子三はガラスで喉を掻き切って自殺したと主張した。10月31日から杭州市全域に戒厳令を敷いた。中華民国教育部は、浙江省の学生によるストライキを阻止した。1947年11月20日に、裁判所は他の3人の学生の陳建新、黄志民、李伯錦の3人に7年の懲役を言い渡した。11月3日に銭英が率いる中国共産党上海局青年部は、闘争規模を拡大して、連帯して学生運動を展開した。1948年8月下旬までに、全国20都市以上で累計10万人以上の学生がストライキを行い、約15万人以上が集会やデモ行進、連帯活動に参加した。
日中戦争の終結後に、国民党軍が1946年6月26日に共産党軍に全面侵攻する国共内戦が勃発した。1947年3月には戦況が不利となり、国民党軍の蔣介石は全面侵攻から重点攻撃へと方針を転換した。共産党軍が盛り返して国民党軍が後退し始めた。最終的に1949年12月7日に国民党軍は内戦に敗戦して台湾に撤退した。