長崎原子爆弾の爆心地から南南東約2.4kmの長崎市西坂町の周辺は瓦礫の山となった。長崎原子爆弾が炸裂した翌日の8月10日早朝に、西坂町の焼け跡に生存した長崎市民らが至るところで呆然と立ちすくんでいた。長崎原子爆弾は、8月9日午前11時2分に投下されて、長崎市松山町東南東約90mの上空約503mで炸裂した。
長崎駅前の西坂町から北へつらなる丘陵を見あげると、階段状に住宅が丘の上までつらなっていた。そのほとんどが焼失してしまった。被爆直後に、被災した工場群の従業員の多くは、この丘の上へ避難した。「ほとんどがはだしで、全身血に染まった者、やけどをして顔や手足がはれあがり、真っ黒くなって歯だけは白く見える者、 「水を・・・・」といいながら、くずれたようになってはい回る者、砲台山をめざして、えんえんと続いていった」(『長崎原爆戦災誌』第2巻)。
斜面にならぶ家々は倒壊し、ところどころ火があり、それらが狭い道をふさいで、歩行は難渋をきわめた。その後「平坦地域をなめていた火災は、次第に山の手に燃え移り、午後になって燃え出した家もあり、夜に入っても、きつね火のような火災が続いた」(同上書)。翌日の8月10日の早朝である。画面を部分的に拡大してみると、焼けだされた人びとが、余燼のくすぶる焼け跡に立つ姿が、至るところに見出された。
西坂町は、爆心地から約2.0〜3.0kmに区分されて、準焼失地域に区分された。長崎町の西坂公園には、日本二十六聖人殉教地がある。1957年2月5日に、豊臣秀吉のキリシタン禁止令によって、フランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人がの26人を、西坂の丘で磔にて槍で刺殺する死刑に処した。キリストが処刑されたゴルゴダの丘に類似した。長崎市の爆心地周辺は焼きつくされ、爆風に吹き飛ばされた瓦礫に混じって、悪臭鼻をつく死体が、道路の脇や川底などに夏日に散乱した。進駐したアメリカ軍は、爆心地近隣の浦上川沿いに飛行場を設置するために、死体と遺骨が散らばる町をブルドーザーで整地を始めた。遺骨の惨状を憂えた長崎市民らによって遺骨収集が始まった。1946年3月からは長崎市西坂町にあった東本願寺長崎説教所(当時)を中心に、長崎駅から大橋、住吉等まで遺骨を丹念に拾い集めた。