1943年5月に、約225,000人のドイツ軍とイタリア軍がチュニジアで降伏した。北アフリカ戦線が終結した後に、ギリシャやアドリア海沿岸に連合軍が侵攻する危機が急速に高まった。枢軸軍はバルカン半島のパルチザンの脅威を一掃するために、シュヴァルツ(Schwartz)攻勢、第5敵攻勢、海峡の戦いでバルカン半島を侵略した。
枢軸国軍によるシュワルツ作戦により、1943年5月15日から6月15日にユーゴスラビアのボスニア南東部に、ドイツ軍とイタリア軍が、パルチザンに対して第5次攻撃した。パルチザンの第2ダルメシア旅団は、奇襲で不意打ちされ、包囲されて、戦闘、飢え、行進によって疲弊した。ドイツ軍により完全に包囲されたパルチザンは、山岳地帯の行軍の最中に、若いパルチザン兵士が死亡した。
枢軸軍は、パルチザンの主力師団を、タラ峡谷とピヴァ峡谷、ドゥルミトルの山岳地帯の孤立した無人地域に、戦闘機、大砲、山岳部隊で侵攻した。パルチザンを5月15日から20日に包囲して封鎖して、パルチザン部隊を行き詰まらせた。追いつめられたパルチザンは、5月21日から6月9日に、封鎖を突破する攻撃を繰り返した。6月10日早朝に突破口が開かれて、パルチザンの疲弊した師団は、6月14日に極めて狭い戦線でスジェスカ川を渡り、フォチャ西の東ボスニアに逃避した。
パルチザンは、約1ヶ月にわたる激しい戦闘後、半数以上の兵員は脱出できたが、パルチザンの犠牲者は壊滅的であった。犠牲者数は、パルチザンは戦闘員約6,391人と枢軸軍に捕獲された民間人約2,537人が、その場で銃殺されて、合計約8,928人が殺害された。ドイツ軍は死者約583人、戦傷者約425人、、行方不明者数不明である。イタリア軍は不明である(比較的少ない)、ブルガリア軍は不明(非常に少ない)、クロアチア軍は不明で、ドイツ軍の約4分の1相当が損失した。