沖縄戦において、1945年4月23日に、アメリカ軍は運天港から上陸して、沖縄愛楽園のハンセン病療養施設を占領下に置いた。アメリカ軍医師団は、沖縄戦終結直後の1945年7月10日に稀少な医療資料として、愛楽園の日本人職員にハンセン病患者の死体を病理解剖をさせて、病理資料をアメリカ医科大学に送付した。7月の炎天下のもとで愛楽園が空爆された瓦礫下の野外で病理解剖を行った。ハンセン病患者の死体を、爆撃で破壊された解剖棟に唯一残った解剖台で病理解剖した。
沖縄県名護市の屋我地島北部済井出地区のハンセン病療養所である沖縄愛楽園は、国の隔離政策により、1938年に設置された。ハンセン病患者は、強制的に隔離されて、強制堕胎や強制断種が処置された。那覇市から北に約60kmの施設も、戦時中はアメリカ軍の攻撃対象になった。特に、1944年10月10日のべ1000機のアメリカ軍機が沖縄本島各地を空襲した。その一部は愛楽園を攻撃し施設の約90%が破壊された。愛楽園の病棟が日本軍の兵舎に間違われ、繰り返し攻撃を受けた。水タンクの破壊により、入所者約30%に治療が困難となり約289人が死亡した。日本軍により1944年5月から読谷村から、9月に各地でハンセン病患者の療養所に大規模な強制収容が執行された。日本軍は軍刀や銃剣で乱暴に脅迫して、愛楽園は定員450人から913人に強制収容した。手足の麻痺しているハンセン病患者に、空襲に対する壕堀りを強制労働させた。
沖縄戦中には、日本軍は愛生園の職員と地域関係者を、密告によるスパイ容疑で暗殺や勾留された。通訳・校長・警防団長などを暗殺した。日本軍は愛楽園に対して、アメリカ軍から配給された容疑で、半分もの食料の放出を要求した。1943年には、既にアメリカで特効薬プロミンが開発されるも、終戦後の1949年になってから使用された。日本本土で、1953年に、隔離政策のらい予防法が成立した。沖縄は1972年5月15日、アメリカとの沖縄返還協定が発効して、沖縄の施政権が日本に返還された。沖縄復帰した日本にて、1996年にらい予防方が廃止された。