太平洋戦争のガタルカナル島の戦いで、アメリカ軍兵士が1942年8月頃に日本軍兵士が戦死した死体の戦場を撮影した。その詳細は判然としないが、写真はガダルカナルの戦いに参戦したアメリカ軍兵士が、戦後に日本の仙台市を訪れた際に、仙台市の写真館がネガから焼き付けて保持していた。アメリカ軍兵士から入手した日本軍の青葉支隊の第2師団が戦死した死体の写真と推定された。アメリカ軍兵士個人が撮影しただけに、生々しい戦場の血なまぐさい臨場感を伴った。日本軍の青葉支隊の2師団の日本軍兵士と推測するも、戦場もに断定はできず不詳である。左手の奇妙な筒状の物体は、アメリカ軍側が使用した土木機材あるいは大砲を固定する台坐と推察された。撮影の地点は、ツラギ、タイボ岬、アメリカ軍が上陸地のレッドビーチの3個所の地域の中で、タイボ岬の可能性が高いと推定された。
アメリカ軍は8月7日にガダルカナル島に上陸した。日本軍は、先遣隊を派遣して一木支隊が8月19日にタンボ岬に上陸した。アメリカ軍は、8月20日にルンガ地区イル川を渡河する一木隊を通信を傍受して待ち構えて猛攻撃をした。夜襲白兵戦をする一木支隊主力約916人は、重火器なしで突撃した。飛行場の東北のイル川を渡河時に、アメリカ軍は照明弾を打ち上げ、明るく照明して、機関銃の十字砲火を浴びせ、日本軍に多数の戦死者を出した。
8月21日午後にアメリカ軍は、軽戦車約5両で一木支隊を背後から砲撃し、上空からグラマン戦闘機が空襲した。日本軍はイル川とテナル川の間の海岸線に追い詰められ壊滅した。アメリカ軍が近づくと、数十人の日本軍兵士は自爆死した。8月21日に包囲された一木隊は掃討されて全滅した。8月25日までに生存してタイボ岬に帰還したのは約126人のみで、約777人が戦死した。アメリカ軍は、戦死者は約40人であった。日本軍は1942年8月31日に、岡連隊の第3連隊と青葉支隊の一部が、ガダルカナル島のタイボ岬に上陸した。輸送船を含むアメリカ艦船が、タイボ岬に接近した。アメリカ軍が上陸するために、多数の艦砲射撃でタイボ岬を襲撃した。